オチ

 

 ノミ屋において「負けた客に対する払戻金」は、オチと呼ばれました(*1)。オチ(払戻金)は、一部のノミ屋で実施されていました(*1)。ノミ屋では投票券1枚100円でした(*1)。オチは1枚10円で、10枚(100円×10枚)買ったものの全て外れた客には100円帰ってきました(*1)。

 

<引用・参考文献>

*1 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p198-199

稲川会の新理事長

 

 

 2019年3月10日、横浜市の稲川会館にて稲川会の定例会があり、トップ交代の人事が発表されました(*1)。現会長の清田次郎は総裁に就き、新会長に理事長の内堀和也(山川一家総長)が就任します(*1)。2017年時点、稲川会は約2,300人の構成員を抱え、1都1道16県を範囲に活動していました(*2)。山口組住吉会に次ぐ規模の広域団体に位置付けられています。

 

 現会長の清田次郎は2010年、稲川会トップの会長職に就任しました(*3)。清田次郎は山川一家(神奈川県川崎市)の出身で、1992(*4)~2008年まで山川一家総長を務めていました(*3)。同年(2008年)、内堀和也(山川一家若頭)が清田次郎から山川一家総長を引き継ぎました(*3)。内堀和也は続けて、2010年清田次郎の稲川会会長就任に伴い、稲川会理事長に就任しました(*3)。稲川会において理事長は「組織内ナンバー2」の役職を意味します。2008年までの清田次郎と内堀和也は、2次団体・山川一家内でのトップ(総長)とナンバー2(若頭)の関係でした。2010年からの2人は、1次団体・稲川会内でのトップ(会長)とナンバー2(理事長)の関係になりました。2次団体・山川一家トップとナンバー2の関係が、1次団体・稲川会に適用された形です。2005年山口組トップ交代においても、2次団体・弘道会トップ(司忍会長)とナンバー2(髙山清司若頭)が、山口組トップ(組長)とナンバー2(若頭)に就きました(*5)。清田次郎と内堀和也は、2010年開始の清田会長体制において、2005年の弘道会の方法を模倣した可能性があります。

 

 新体制の稲川会において注目されるのが新理事長の人事です。前の角田吉男会長体制(2006~2010年)において、清田次郎も理事長を務めていました(*3)。稲川会において理事長は「現トップの後継者」の意味合いを持っています。考えられる展開として、内堀和也が「山川一家ナンバー2」を理事長に引き上げることがあります。現在の山川一家若頭は小林稔です。稲川会執行部で慶弔委員長を務める池田龍治は、2015年2次団体・小金井一家総長に就任しましたが、2015年以前は山川一家若頭を務めていました(*6)。2008年内堀和也の山川一家総長に伴い、池田龍治は山川一家若頭に就任しました(*6)。両名とも、内堀和也にとって信頼できる人物であると推測されます。

 

<引用・参考文献>

*1 『週刊実話』2019年3月28日号, p37

*2 警察庁「平成29年における 組織犯罪の情勢」, p34

*3 『実話時代』2014年8月号, p25-26

*4 『裏社会 闇の首領たち』(礒野正勝、2012年、文庫ぎんが堂), p140

*5 『別冊 実話時代 山口組分裂闘争完全保存版』(2016年10月号増刊), p63

*6 『実話時代』2016年2月号, p12-18

角力博打

 

 明治時代(1868~1912年)、角力博打が流行りました(*1)。角力(かくりょく)とは相撲のことで、角力博打は文字通り、相撲の勝敗に賭ける博打でした(*1)。1897年頃、京都の中心部では、四ケ所の角力場において、毎月角力が開催されていました(*1)。四ケ所は、京極御幸通り、伏見、白川、六角堂でした(*1)。京極御幸通りと六角堂の角力場を仕切っていたのが、会津小鉄一家・2次団体いろは会でした(*1)。いろは会トップのいろは幸太郎は、会津小鉄一家の最高幹部でした(*2)。1897年当時、1次団体の会津小鉄一家トップは上坂卯之松でした(*2)。上坂卯之松は、会津小鉄一家を設立した上坂仙吉の実子でした(*2)。いろは幸太郎が京極御幸通りを、いろは会若頭の山本覚太郎が六角堂の角力場を仕切っていました(*1)。

 

<引用・参考文献>

*1 『任俠 実録日本俠客伝②』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p23

*2 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p75-76

テキヤ組織にとっての平日露店営業

 

 太平洋戦争後(1945年以降)、闇市の成立に伴い、テキヤ組織が勢力を拡大しました(*1)。1946年の東京において約8万人のテキヤテキヤ組織の構成員の数なのか、周辺者も含む数なのかは分からない)がいたとされています(*1)。

 

 1956年以降、テキヤ組織の勢いが止まりました(*2)。要因の1つとして、平日露店営業の禁止が挙げられます(*2)。テキヤ組織の親分衆が平日露店営業の再開運動をしたことから、テキヤ組織にとって平日露店営業の収入は大きかったと推測されます(*2)。対して、テキヤ組織の中には、無許可で露店営業(通称「ひろい」)をする者もいました(*2)。

 

<引用・参考文献>

*1 『現代ヤクザに学ぶ「銭の作り方」』(別冊宝島編集部編、2008年、宝島SUGOI文庫),p114

*2 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p177

バナナの叩き売り

 

 露店商売の1つとして、バナナの叩き売りがありました(*1)。一般店舗に比べ、3~4割低い価格でバナナが販売されていました(*1)。低価格の要因として、露店の諸経費の低さ、バナナの供給過剰時期における仕入れがあったと言われています(*1)。

 

<引用・参考文献>

*1 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p154-155

小金井一家と興行

 

 博徒組織は興行の領域にも手を出していました。博徒組織には、普段から博打客を抱えていたことから、「集客力」がありました(*1)。興行を巡るトラブル収拾には、博徒組織の「暴力装置」の威光が働きました(*1)。興行は、博徒組織にとって活動しやすい領域でした。博徒組織・小金井一家の石井初太朗は、昭和初期から川崎大師を拠点に活動していました(*2)。太平洋戦争後(1945年以降)、石井初太朗は川崎の茶屋「吉水」で浪曲や芝居を打ち、興行事業を行いました(*2)。後に1960年、石井初太朗は小金井一家の六代目総長に就任しました(*2)。

 

<引用・参考文献>

*1 『裏社会 噂の真相』(中野ジロー、2012年、彩図社), p104

*2 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p117-118