安売りしない

 自分を安売りしないこと。自分だけは自分を信じて。状況を変えるのは自分なんだという強い気持ちを持ってやっていくのです。

やるべきことをやる

 暑さが本格化して(というより湿度のような気がする)、日々身体が疲れやすくなっています。夕方ぐらいになると、なんだが疲れがドッと感じます。休日は昼寝をするので、疲れているんでしょうね。

 

 無理せずやっていこうと思います。しかし行動量は極力落とさずにやっていきたいですね。減らせば、その分経験や知識は入ってこない訳で。仕事で自分を伸ばしたければ、行動は多くしていく必要があります。意地で維持していきたいところ。

 

 あと人間関係で悩むことも多いですが。グッと我慢ですね。不必要にキレていたら、周りの信頼は得られにくいのは実際のところ。まあここぞというところで、思いっきりやったらいいと思うのですが(もちろん。常識と寛容の範囲内で)。

 

 キレないで、まずはグっとこらえる。何よりも仕事の目的を忘れないことです。その目的に立ち返れば、そもそも向かなければならない「人」はどこなのかは、はっきりわかります。向かうべき人の為に、尽力していく。勉強して行動を多くして、知識や経験を積んでいく。実力はついてくると思います。それを忘れて、些細なことに振り回されて、エネルギーを使っている場合じゃありません。

 

 やるべきことをやる。

双愛会の2次団体が9つあった時代

 

 2018年現在の双愛会には、6つの2次団体があります(*1)。寺島一家(市原市)、吉田一家(市原市)、髙寅一家(銚子市)、上金一家(銚子市)、畔田吉清一家(鴨川市)、谷戸一家(横浜市)です(*1)。髙村明五代目会長時代(1992~2007年)の双愛会には、9つの2次団体がありました(*1) (*2)。現在の畔田吉清一家は、畔田一家と吉清一家の2つの組織の合併により誕生した組織です(*1)。髙村明五代目会長時代には、上記団体に加えて植草一家、小松屋一家という2つの組織がありました(*1)。後に植草一家は寺島一家に、小松屋一家は谷戸一家に合併され、また畔田吉清一家の誕生により、双愛会の2次団体は6つに編成されました(*1)。編成時期に関しては、髙村明五代目会長時代(1992~2007年)の間だったのか、塩島正則六代目会長体制以降だったのかは、手元の資料だけでは分かりませんでした。

 

 髙村明五代目会長時代(1992~2007年)までの双愛会は連合型の組織形態でした(*1)。「1次団体」は各2次団体の上位組織ではありませんでした。髙村明五代目会長の跡を継いだ塩島正則六代目会長は2007年、1次団体の組織形態を垂直型に変更しました(*1) (*3)。各2次団体にとって「1次団体」は上位組織となりました。

 

<引用・参考文献>

*1 『実話時代』2018年7月号, p28-30

*2 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p162-163

*3 『実話時代』2016年8月号, p14-17

願いを持つ

 今日は七夕ですね。願いごとを書くだけでも、僕は意味があると思っています。まず願いを持つこと自体、大人になれば、結構難しいことです。冷笑的になるというか、現実に沿った生き方になってしまいます。

 

 でもだからこそ、願いを持つことって意味があると思うのです。今の自分には叶わないかもしれないけど、将来そうあって欲しいこと。希望ともいいかえてもいいです。もちろん行動も大事です。その行動も願いを原動力にしています。

 

 まずは願いを持つこと。僕は昔から割と現実的ではないことを言って、周りを悩ませていました。実際思い通りにいかなかったこと多かったです。でも思い続けたら、なんとかなったものがありました。それなりに行動した結果なんとかなった面もありました。

 

 大事なのは、「自分がこうありたい」と思ったら。強く思うこと。思い続けることです。他者からどう見られようが。それが日々の行動につながっていくはずです。願いを捨てないことです。

 

 僕もまだ願いを強く持って生きていきますよおおお!!

山口組3次団体となった独立組織

 

 山口組五代目渡辺芳則組長体制が開始した1989年から1993年までの5年間、西日本をはじめとした各地の独立組織が山口組の傘下に入りました(*1)。

 

 1989年9月テキヤ系組織・寄居関保連合(北海道旭川市)が山口組に入り、山口組2次団体となりました(*1) (*2)。

 

 1990年3月南一家(大阪府)、7月大野一家(大阪府)、10月愛桜会三重県四日市)(*2)、11月澄田会(大阪府)の計4団体が山口組に入り、山口組2次団体となりました(*1)。

 

 1991年2月松山連合会(愛媛県)、3月博徒系組織・瀬戸一家(愛知県)(*3)、3月平井一家(愛知県)、5月テキヤ系組織・小車誠会(大阪府)(*4)、5月テキヤ系組織・源清田会(新潟県)(*3)、7月諏訪一家(兵庫県西宮市)、12月博徒系組織・佐々木組(和歌山県)(*5)の計7団体が山口組に入り、山口組2次団体となりました(*1)。

 

 1993年11月西田組(兵庫県尼崎市)が山口組に入り、山口組2次団体となりました(*1)。1989~1993年の5年間に計13の独立組織が山口組の傘下に入り、2次団体となりました。

 

 上記以外の独立組織も山口組の傘下に入りました。博徒系組織・九紋龍組(大阪府)(*2) (*7) (*8)、博徒系組織・倭奈良組(大阪府)(*2) (*7) (*8)、船本会(大阪府)(*2)、石川会(佐賀県佐賀市)(*9)は、山口組2次団体の傘下に入り、山口組3次団体となりました。1990年九紋龍組が山口組2次団体・吉川組傘下、同年12月倭奈良組が山口組2次団体・倉本組傘下に入りました(*2)。船本会も倉本組傘下に入りました(*2)。1992年石川会が山口組2次団体・宅見組傘下に入りました(*9)。

 

 1989~1994年7月において山口組2次団体の上納金は、直参クラス月額85万円、最高幹部・舎弟クラス月額105万円でした(*10)。年額で直参クラス1,020万円、最高幹部・舎弟クラス1,260万円の上納金でした。山口組2次団体には1年間に「1千万円以上の余分な資金」を捻出する資金力が求められたことになります。

 

 九紋龍組、倭奈良組、船本会、石川会が2次団体ではなく3次団体となった背景には、要因が組織ごとに複数あったと考えられます。しかし大きな要因として、「資金力」が懸念されたと考えられます。山口組2次団体として活動していくには不十分な資金力であると当時判断されたと考えられます。

 

<引用・参考文献>

*1 『山口組の100年 完全データBOOK』(2014年、メディアックス), p447-449

*2 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社), p148-152

*3 『洋泉社MOOK・山口組・50の謎を追う』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2004年、洋泉社), p96-97

*4 『別冊 実話時代 山口組分裂闘争完全保存版』(2016年10月号増刊), p93

*5 『六代目山口組10年史』(2015年、メディアックス), p106

*7 『実話時代』2016年3月号, p105-106

*8 『実話時代』2016年1月号, p51

*9 『洋泉社MOOK・山口組・史上空前の四万人軍団動く!』(有限会社創雄社『実話時代』落合章子・木下明美編、2005年、洋泉社), p86

*10 『洋泉社MOOK・山口組・50の謎を追う』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2004年、洋泉社), p189

太政官

 

 かつて関西には太政官という独立組織がありました(*1)。1949年の団体等規制令により太政官は解散を余儀なくされました(*1)。1958年太政官の香西支部長だった若林暲は、旧太政官勢力を集め若林組を香川県で立ち上げました(*1)。1962年若林組は山口組2次団体・地道組の傘下に入りました(*1)。1964年若林組は山口組2次団体に内部昇格しました(*1)。若林組は当時、高松市をはじめ、坂出、丸亀、観音寺、琴平に侵出していました(*1)。

 

<引用・参考文献>

*1 『山口組の100年 完全データBOOK』(2014年、メディアックス), p72-73

東興業の違法賭博ビジネス

 

 ヤクザ組織のトップをつとめた後、映画俳優として活動するという稀有な経歴を持つのが安藤昇(1926~2015年)です(*1)。後に俳優活動はやめるものの、作家や映画プロデューサーとして表社会に関与し続けた人物です(*1)。安藤昇は1952年「東興業」という株式会社を設立します(*2) (*3)。東興業は東京の渋谷を拠点としました(*2)。

 

 東興業は実質、安藤昇をトップとするヤクザ組織でした(*3)。組員は約500人いたようです(*3)。表向き東興業は、不動産売買と興行を事業としていました(*3)。一方、違法賭博ビジネスも裏で行っていました(*3)。毎月「四九の日」に都内で賭場を開き、一晩の収入(テラ銭)は約200万円(当時の金額)だったようです(*4)。「四九の日」とは4日、9日、14日、19日、24日、29日のことを指します(*5)。月に約6回、賭場を開いていたことが分かります。ヤクザ社会において「4」「9」という数字は嫌われている為、「四九の日」に賭場を開催する組織は珍しかったようです(*5)。逆にいえば、「四九の日」は他組織の賭場開催日と被らないことも意味しています。東興業は他組織と違いを作る為に、「四九の日」にあえて開催日を設定していたのかもしれません。また時には摘発を避ける為に、伊豆や箱根の温泉場まで行き、賭場を開きました(*4)。

 

 違法賭博ビジネスにおいて、東興業が重要視したのは客層です(*3)。社会的地位があり、お金を沢山持っている人達を主な客層として選定しました(*3)。賭博の負けに恨みを持って、警察に通報するような客を避ける狙いがありました(*3)。東興業は競馬場のゴンドラ席にいる人達に狙いを定めて、「営業」をかけました(*3)。

 

 1964年頃から非現行でも違法賭博に関与した者を摘発できるようになりました(*6)。現行犯でなくても、摘発可能になったのです。2人以上が過去に遡って、例えば「半年前に●●の場所で違法賭博に参加していました」と警察に証言すれば、該当の組織は摘発されることになったのです(*6)。裏返せば、それ以前は現行犯でなければ、組織を摘発できなかったのです。

 

 東興業は警察の目から逃れる為、客の乗る車を何か所も経由させ、またその都度車を乗り換えさせていました(*3)。東興業は新宿において、9階建てマンションの最上階の2部屋で賭場を開いていました(*3)。最上階であれば、近くの交番の様子を見ることができます(*3)。交番を監視していれば、摘発の動きが分かるからです(*3)。また最上階であれば、警察の隊員達が階段で駆け上がるまで時間を要するからです(*3)。その間、逃げる時間が作れます。

 

<引用・参考文献>

*1 『安藤昇 90歳の遺言』(向谷匡史、2017年、徳間文庫), p10

*2 『安藤昇 90歳の遺言』, p78

*3 『安藤昇 90歳の遺言』, p90-93

*4 『安藤昇 90歳の遺言』, p67

*5 『ヤクザ大辞典 親分への道』(山平重樹監修、週刊大衆編集部編・著、2002年、双葉文庫), p89-90

*6 『ヤクザ大辞典』(山平重樹監修、週刊大衆編集部編、2002年、双葉文庫), p108-109