天王新地

 

 関西の「ちょいの間」で全盛期に比し、衰退しているのが天王新地(和歌山市)です(*1)。全盛期30軒(*1)、もしくは40軒ほど (*2) の店があったといわれています。しかし2018年時点、天王新地の「ちょいの間」6軒ほど営業しています(*2)。大幅に店数が減少しています。供給側の天王新地に変化があったのか、もしくは和歌山市及び周辺地域の性風俗の需要に変化があったのだと考えられます。ちなみに天王新地の特徴の1つとして、客を相手にする女性が「ちょいの間」に住み込んでいることがあります(*2)。

 

<引用・参考文献>

*1 『週刊実話』2016年6月23日号「スキンレス春川が往く! 風俗裏街道」, p100-101

*2 『週刊実話』2018年11月15日号「スキンレス春川が往く! 風俗裏街道」, p130-131

パチンコ店のミカジメ料

 

 公営ギャンブル(競馬、競輪等)を除いて、日本では賭博ビジネスは法律上認められていません。しかし実質パチンコ店は賭博ビジネスを行ってきました。

 

 パチンコ店は景品交換所を介して、勝った客に金を渡しています(*1)。パチンコ店で勝った客に金を渡すのは、明らかな違法行為になるからです。

 

 パチンコ店は勝った客に換金用景品(ボールペンやネクタイピン等)を渡し、客は近くの景品交換所に行き換金用景品を現金と交換してもらいます(*1)。景品交換所は表向きパチンコ店とは関係のない「第三者」としての立場をとることで、違法性の色合いを薄くしています。

 

 景品交換所は換金用景品を景品問屋に渡し、景品問屋はパチンコ店に換金用景品を供給しています(*1)。換金用景品は「景品問屋」→「パチンコ店」→「景品交換所」→「景品問屋」…という経路で循環しています。

 

 パチンコ店の違法性を見逃さなかったのがヤクザ組織でした。かつてヤクザ組織にミカジメ料を払っていたパチンコ店もありました(*2)。ミカジメ料は月額30万円以上が相場といわれていました(*2)。

 

<引用・参考文献>

*1 『裏経済パクリの手口99』(日名子暁、1995年、かんき出版), p185

*2 『裏経済パクリの手口99』, p116

博徒組織の高寅一家

 

 双愛会2次団体・高寅一家は千葉県銚子市を拠点に活動してきました(*1)。銚子市は千葉県北東部に位置し、太平洋に面する漁業の街です。双愛会2次団体・上金一家、寺島一家も銚子市を拠点に活動してきました(*1)。

 

 高寅一家の創設者は高橋寅松でした(*2)。高橋寅松は元々、上金一家の構成員でした (*2)。1933年上金一家トップ吉田米蔵が内部抗争により射殺されました(*2)。トップ急死による組織の混乱を受けて、1933年高橋寅松は上金一家から独立、高寅一家を立ち上げました(*2)。高寅一家は上金一家からの派生組織だったのです。

 

 博徒組織の高寅一家は「1」と「6」の付く日に賭場を開帳していたと言われています(*3)。開帳日は「1、6、11、16、21、26日」であったと考えられ、月に約6日開帳されていたことになります。開帳日は組織によって異なり、東興業(1952年設立。通称:安藤組)(*4)の開帳日は、「4」と「9」の付く日で(*5)、「4、9、14、19、24、29日」でした。東興業の開帳日も約6日でした。

 

 高寅一家、東興業ともに、開帳日から次の開帳日まで4日空けていたことが分かります。開帳日がほぼ等間隔で設けられていたのは、集客策だったと考えられます。

 

<引用・参考文献>

*1 『実話時代』2018年7月号, p26-30

*2『サカナとヤクザ 暴力団の巨大資金源「密漁ビジネス」を追う』(鈴木智彦、2018年、小学館), p125-127

*3 『サカナとヤクザ 暴力団の巨大資金源「密漁ビジネス」を追う』, p145

*4 『安藤昇 90歳の遺言』(向谷匡史、2017年、徳間文庫), p78

*5 『安藤昇 90歳の遺言』, p67

関東尾津組と関口グループ

 

 極東会の源流であるテキヤ組織・関口グループが太平洋戦争後(1945年以降)、拠点とした池袋から新宿に進出します(*1)。進出要因の1つとして、新宿の露店市場において多大な影響力を持っていた関東尾津組組長の尾津喜之助の「許可」がありました(*1)。

 

 尾津喜之助は、戦前新宿を仕切っていたテキヤ組織・飯島一家の小倉米三郎の子分になり、1926年飯島一家内で関東尾津組を結成します(*2)。いわゆる尾津喜之助の「一家名乗り」です。関東尾津組はその後、勢力を伸張していきます(*2)。1930年11月山形県で関東尾津組の元構成員・高山春吉の殺害事件が起きます(*3)。高山春吉は粗暴な行動を関東尾津組内から問題視されていました(*3)。同年8月、身の安全を考えた高山春吉は東京から姿を消しました(*3)。

 

 関東尾津組は高山春吉の行方を追いました(*3)。高山春吉の居所をつかんだのが関口グループの関係者でした(*3)。高山春吉が山形県山形市七日町のテキヤ組織の者の自宅に身を寄せていることが分かったのです(*3)。全国の祭りや縁日(高市=タカマチ)を回るテキヤ稼業上(*4)、テキヤ組織は人を探すことには長けています。報告を受けた関口グループトップの関口愛治は尾津喜之助に伝えました(*3)。その後、関口愛治は関口グループの構成員1人、関東尾津組の構成員1人、その他もう1人を連れて、計4人で山形県に向かいます(*3)。11月2日、高山春吉の殺害を実行するのです(*3)。高山春吉殺害事件は、関東尾津組が関口グループの「助け」を借りた格好です。

 

 高山春吉の殺害事件で関口愛治は殺人教唆の罪で1939年まで服役しました(*1)。尾津喜之助も殺人教唆の罪で1941年まで服役することになりました(*2)。戦後、関東尾津組は敗戦日の5日後の8月20日から新宿で露店市場(新宿マーケット)を開きました(*5)。新宿マーケットは「闇市」と位置づけられています(*6)。1947年尾津喜之助は脅迫の容疑で逮捕されました(*7)。トップの逮捕を機に関東尾津組は解散しました(*7)。

 

<引用・参考文献>

*1 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版), p50-51

*2 『歌舞伎町・ヤバさの真相』(溝口敦、2012年、文春新書), p50-53

*3 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p43-48

*4 『ヤクザに学ぶ 伸びる男 ダメなヤツ』(山平重樹、2008年、徳間文庫), p155

*5 『歌舞伎町・ヤバさの真相』, p54-58

*6 『テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代を辿る』(厚香苗、2014年、光文社新書), p100

*7 『歌舞伎町・ヤバさの真相』, p58

新宿闇市を開設したテキヤ組織

 

 太平洋戦争終了時(1945年)以降、東京・新宿で闇市(露店市場)が開設されました(*1)。露店市場を仕切っていたのがテキヤ組織でした。新宿では尾津喜之助の飯島一家小倉二代目尾津組が早く露店市場を開設しました(*1)。

 

 その後、他のテキヤ組織も新宿で露店市場を立ち上げました(*1)。飯島一家内山二代目和田組、東京早野会初代分家安田組などです(*1)。テキヤ組織間で縄張りを巡る争いが起きましたが、淀橋警察署の仲介等もあり、縄張りが確定されました(*2)。尾津組は新宿東口方面、和田組は西口方面、安田組は南口方面を縄張りとしました(*2)。

 

 和田組は組織名から尾津組と同じ飯島グループだったことが分かります。新宿の露店市場開設時の和田組トップは和田薫、安田組トップは安田朝信でした(*2)。

 

<引用・参考文献>

*1 『歌舞伎町・ヤバさの真相』(溝口敦、2012年、文春新書), p50-55

*2 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p58-59

麻雀荘

 

 ヤクザ組織によるミカジメ料徴収の対象として、麻雀荘があります(*1)。知られているように、麻雀荘において客同士による賭け麻雀が行われています。法に照らせば、賭け麻雀をした客に賭博罪、店に賭博場開張等図利罪が適用されます。しかし警察組織は検挙せず見過ごしています。

 

 麻雀荘と似た存在として、ソープランドがあります。ソープランドでは、違法行為の売春が提供されていますが、見過ごされています(*2)。ヤクザ組織はソープランドからミカジメ料を徴収しています(*2)。

 

 麻雀荘ソープランドは「違法行為」により利益をあげている為、客と揉めた時、警察に通報しにくいです。現在検挙されていないものの、潜在的な検挙リスクがある為、麻雀荘ソープランドは警察組織と距離を置いておきたいと考えているのでしょう。

 

 ヤクザ組織は、警察組織に頼れない麻雀荘ソープランドの立場を見て、ミカジメ料を徴収しているのです。

 

<引用・参考文献>

*1 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p187

*2 『極道のウラ情報』(鈴木智彦、2008年、宝島SUGOI文庫), p34-37

4組織に分割された旧柳川組

 

 山口組2次団体・柳川組(山口組の活動期間:1959~1969年)(*1)は、1961~1964年全国各地に進出(*2)、山口組の広域化に大きな役割を果たしました。柳川組の進出方法としては、地元ヤクザ組織との抗争に加えて、地元ヤクザ組織の一部勢力の吸収等がありました(*2)。柳川組は柳川次郎によって結成された組織で、元々山口組には属していませんでした(*1)。

 

 柳川次郎は1955年西宮の諏訪一家に入りました(*3)。柳川次郎は大阪に拠点を移し、諏訪一家2次団体・藤本組の客分になりました(*3)。藤本組の客分時代に、柳川次郎は自らのグループを率いるようになりました(*3)。1957年柳川次郎は恐喝容疑で逮捕され、保釈されたものの、諏訪一家から追放処分を受けました(*1)。同年暮れ柳川次郎は大阪の酒梅組2次団体・梅野組の客分になり、大阪市西成に進出していきました(*3)。

 

 1958年2月柳川グループは、西成飛田の売春ビジネスを握っていた酒梅組2次団体・鬼頭組と抗争しました(*1)。酒梅組2次団体同士の抗争でした。梅野組の柳川グループの有利な形で抗争は終わりました(*1)。以降柳川グループは勢いを増し、「柳川組」と名乗るようになりました(*1)。1959年2月柳川組は愚連隊・交星会と抗争に至りました(*1)。山口組若頭の地道行雄は柳川組の好戦性に目を付け、1959年10月自身が率いる地道組の傘下に柳川組を収めました(*1)。柳川組は「山口組3次団体」になりました。1959年10月時点で柳川組が酒梅組2次団体・梅野組に属していたのか、梅野組から脱退して独立団体であったのかは分かりません。

 

 山口組3次団体・柳川組は1960年1月西谷会、1960年5月砂子川組2次団体・松尾組と抗争に至り好戦性を示しました(*1)。1960年8月山口組は大阪の愚連隊・明友会と抗争し、柳川組も参戦しました(*1)。抗争による山口組の逮捕者は102人で、そのうち72人が起訴されました(*1)。被告人72人の42人が柳川組組員でした(*1)。被告人の58%が柳川組組員だったことから、柳川組が多くの人員を抗争に派遣したことが分かります。1960年10月、明友会との抗争の功績により、柳川組は山口組2次団体に昇格しました(*1)。

 

 その後全国進出した柳川組は1967年時、傘下団体73団体、構成員1,690人の勢力を持つまでに拡大しました(*1)。1964年からの警察庁の取締り強化(通称:頂上作戦)では、柳川組は2次団体でありながらも、「十大暴力団」(山口組も含まれていた)に指定されました(*1)。1964年柳川組二代目組長に谷川康太郎が就任しました(*1)。1969年大阪府警の厳しい取締りにより、柳川組は解散に至りました(*1)。当時谷川康太郎は恐喝容疑で刑が確定され、懲役生活に入っていました(*1)。前トップの柳川次郎も同様に、懲役生活に入っていました(*1)。山口組は「柳川組が勝手に解散した」と解釈し、柳川次郎と谷川康太郎を絶縁処分にしました(*1)。

 

 旧柳川組勢力は山口組内に残ったものの、一会、金田組、藤原会、章友会の4組織に分割されました(*3)。4組織とも2次団体として昇格しました(*3)。4分割したことから、当時の山口組執行部が「柳川組の規模」が大き過ぎると認識していたと考えられます。

 

<引用・参考文献>

*1 『洋泉社MOOK 「山口組血風録」写真で見る山口組・戦闘史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、1999年、洋泉社), p128-135

*2 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、2015年、講談社+α文庫), p114-126

*3 『実話時代』2017年1月号, p26-31