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明日も負けずにやっていくぞぉおおお~!!!

 明日からまた仕事。慣れないことばかりで、またプレッシャーも半端ないですけど。負けずに、やっていくしかないです。これは絶対職場では言わないのですが…。「今自分の前に先輩が沢山いるということは。先輩たちもこの試練を乗り超えてきた。ということは、自分も乗り越えられるはず」という飛躍や過信も多少入った理屈で、自分を納得させています。ほんと絶対言えません。

 

 分からないことは多いです。でもその時は、もう馬鹿にされようが、何思われようが、聞くことにしています。聞くことだけでも、結構疲れんだなーと思いました。でも一度、聞けば、その情報に関してはもう二度と聞くことはありませんし。その情報を基に、色々と確実な行動を打つことができます。結局、聞かずに知らないことばかりだと、打てる行動も少なくなっていきます。

 

 職業柄、精神的にまいることや気持ちの面で傷つくことがあります。でもそこは大人の対応で我慢です。ささいなとことで、自分の失点になってしまいます。特に、今の時期はシビアに自分が評価される時期。ここはグッと我慢。そして仕事の目的。自分が何の為に、この仕事に就いたのか。もう一度、振り返り。その為に、死力を尽くして頑張っていきます。

 

 今の時点で、周りから褒め言葉や称賛なんて要りません。今の時点で、同情を相手や周りに下手に求めずです。己の日々の言動と実績で、周りの信頼を勝ち取るのみです。

 

 といっても、本音は日々結構辛いっちゃ、辛いです。でもここ数年、こんな感じでやってきました。そして、いつの日か…という希望も心の奥底に持っています。

 

 気持ちで退かないこと。正しさを追求していくこと。いかなる時も元気さを失わないこと。明日も最終ラウンドの夕方まで(いや夜かな)、戦い抜く所存です。

勝谷誠彦さん、ラジオに出て欲しい!!

 コラムニスト勝谷誠彦さんのメディアへの露出が減っています。ニッポン放送のザ・ボイスというラジオ番組を、よくポッドキャストで聞いているのですが。昔、月曜日は勝谷誠彦さんがニュース解説していて、物凄く面白かったです。勝谷誠彦さんの話し方は、不思議と聞きやすく、引き込まれていました。勝谷誠彦さんの読み物も面白いですが、勝谷誠彦さんはラジオこそが最も輝けるのではと個人的に思っています。どこかのラジオ局で、もう一度番組にレギュラー出演されることを期待しています。あんなに面白い人を使わないなんて、もったいなさ過ぎます。

点心と白酒

 中華料理の点心が食べたいと思い、この前色々探したところ。結構高いお店ばかりでした。リーズナブルに食べられるお店って、ないものなんですかね~。できれば、食べ放題とかで、バクバクと食べてみたいものです。あと中国のお茶とかも飲んでみたいっすね。

 

 あといつも気になるのが、中国の蒸留酒の白酒。日本の酒コーナーで売ってないですよね。いつか飲んでみたいと思っていて。一体どんな味がするのか…。ウオッカぽいのか、テキーラぽいのか、焼酎ぽいのか…。気になります。

山口組と船内荷役業

 太平洋戦争後、兵庫県神戸市を本拠地とする山口組は1960年代まで神戸港の荷役業に深く関与していました。明治開始以降、国際貿易の港として位置づけられた神戸港は発展していきます(*1)。港の利用増加とともに、港湾荷役の業務も大量に発生していきます。機械化の進んでいない当時、揚荷(船から陸あげされた荷物)の業務は、人的労働力で賄われていました。港湾荷役業務を遂行する上で、重要な役割を果たすのが、大量の労働者の確保と管理です。揚荷の業務内容よりも、労務面の是非が港湾荷役業の鍵を握っていたのです。大量の男性を集めて、港湾荷役の仕事をさせるには、一定の強い力が必要となります。明治以降、暴力装置を担保とする組織つまりヤクザ組織が自ずと港湾荷役業の仕事を担っていました。戦前の山口組、初代組長・山口春吉の時代から、山口組神戸港の港湾荷役業に取り組んでいました(*2)。

 

 戦後、神戸港港湾施設の多くがアメリカ軍に接収されます(*3)。戦争の影響により、神戸港も国際貿易の港としての役割を失っていました(*3)。しかし戦後復興に伴い、神戸港の復活が予想されていました。三代目組長・田岡一雄が率いる山口組神戸港の港湾荷役業を再び手掛けようとしていました。神戸港の港湾荷役の仕事を狙うヤクザ組織は、山口組以外にも、当時の神戸には複数いました。中山組はハシケ(港運船)業、五島組は沿岸荷役業、本多会は倉庫と沿岸荷役業を得意分野としていました(*4)。ちなみにハシケとは、自走できない特殊な港運船のことです(*5)。昔の港は水深を十分確保するのが困難で、大きな貨物船は直接港に接岸できませんでした(*5)。よってハシケを使い港内の貨物船から沿岸まで荷物を運んでいたのです(*5)。当時の山口組は、どこの組織も深く入り込んでいなかった船内荷役業を手掛けていきます(*4)。ライバル組織と競合する分野に進出するのを避け、隙間の船内荷役業を選んだのです。

 

 1950年6月朝鮮戦争勃発、神戸港で港湾荷役業の仕事が増加します(*6)。1952年3月以降アメリカ軍から神戸港の返還が始まります(*6)。環境が整備される中、山口組神戸港の港湾荷役業で重要な位置を占めるべく、対外活動を活発化していきます。1956年3月、港湾荷役会社の全国組織・全国港湾荷役振興協会(全港振)が結成されます(*4)。結成に大きな役割を果たした田岡一雄は副会長兼神戸支部長の役職に就きます(*4)。全港振は、ヤクザ組織の団体ではなく、表世界で活動する企業の団体です。なぜ山口組トップの田岡一雄が就けたのでしょうか。1953年1月、田岡一雄は船内荷役業の甲陽運輸株式会社を設立、社長に就いていました(*4)。田岡一雄は「表世界の顔」として「甲陽運輸株式会社社長」の地位を手に入れていたのです。暴対法のない時代ゆえに、ヤクザ組織の長が企業の社長になることは許されていました。全港振は「港湾荷役会社の業界団体」として剛腕ぶりを発揮しました。1964年9月、ノルウェーの貨物船「スルナ号」が神戸港の第一防波堤の外側に停泊中、台風の影響により岸壁に激突、浸水する事故が起きます(*7)。事故を受け、東京の会社岡田サルベージが復元作業にあたるとともに、離礁準備のため荷おろしもしました(*7)。全港振神戸支部は船内荷役免許非保有の岡田サルベージの荷おろし行為を非難します(*7)。加えて、全港振神戸支部は岡田サルベージにハシケを供給していた大阪の会社にハシケ供給を止めさせて、岡田サルベージの復元作業を中断に追い込んだのです(*7)。結局、岡田サルベージ社長が神戸に向かい、浸水していないエリアの荷役を全港振に振ることで、解決に至りました(*7)。全港振が当時、実業の世界で大きな影響力を持っていたこと示すエピソードです。当然、全港振の推進力の背景には、山口組の威光がありました。

 

 山口組は甲陽運輸をはじめとした正規の船内荷役会社の経営を握る形で、神戸港の船内荷役の仕事から収益を得ていました。神戸港の船内荷役業に限れば、表面上収益の捻出方法は合法だったのです。船内荷役業に山口組が進出した当初、山口組傘下の船内荷役会社は2次下請の地位を得るに過ぎませんでした(*8)。元請は三井、三菱、住友などの財閥系の倉庫会社でした(*8)。荷物を神戸港に持ってくる船会社は財閥系の倉庫会社に荷役を依頼します。財閥系の倉庫会社は1次下請の会社に流し、1次下請の会社は甲陽運輸をはじめとした2次下請の会社に流す仕組みです。1956年時点、神戸港の輸出入貨物の7割以上は2次下請の会社により荷役されていました(*8)。しかし1959年3月、港湾運送事業法が改正され、荷役業の2次下請が禁止されました(*8)。甲陽運輸は1次下請に昇格します(*8)。また旧2次下請会社が集約化されていきます(*8)。山口組は、機に乗じて、山口組傘下の船内荷役会社と非山口組系の船内荷役会社の合併を進めていきました。山口組傘下の高砂運輸と非山口組系の甲南海運が合併し双和運輸設立、山口組傘下の吉川運輸、商栄運輸と非山口組系の協成海運が合併し日栄運輸設立の事例がありました(*8)。山口組は神戸の船内荷役業界の中で勢力を拡大していったのです。

 

 神戸港の船内荷役会社の地位は向上していきます。1962年6月、全港振神戸支部が200口の労働力確保困難を神戸港船内荷役調整協議会に申し入れをします(*9)。遡る1956年10月、発足した神戸港船内荷役調整協議会は、神戸港における1日最高荷役口数を、上限180口に設定しました(*9)。荷役の労働者は約20名1班に編成されます(*10)。班は「口」(クチ)と呼ばれていました(*10)。つまり180口とは、180班×20名=約3600名の荷役労働者のことを指します。当時の神戸港における1日最高荷役量は、「荷役労働者の1日の合計作業量」ということになります。港湾荷役会社としては、労働者の調達コストを踏まえると、上限量は予め設定されていることが望ましいです。しかし1962年6月までに1日最高荷役口数は200口(約4000名)に増加します(*9)。結果、「客」である船会社が協力金を荷役会社に支払う形で、この問題は解決されます(*9)。船会社による協力金は、神戸港だけに見られた例でした(*9)。

 

 一方、船内荷役業に伴う労務管理では、ヤクザ組織の資源である暴力装置が発動されていました。1964年時点、神戸港の船内荷役業の64.2%が日雇い労働者で占められていました(*11)。山口組支配下の船内荷役会社に人材を供給する手配師は、自己経営もしくは関係者の安宿に日雇い労働者を住まわせ、また博打場を提供していました(*11)。博打場は日雇い労働者の賃金の一部を再吸収する装置として機能しました(*11)。船内荷役業の「周辺ビジネス」も、山口組にとっては大きな収入源だったと考えられます。

 

 しかし1966年以降、山口組神戸港の船内荷役業から撤退することになります。多様な要因が絡んでの結果です。まず1964年警察庁によるヤクザ組織への厳しい取締りが開始されます。取締りは山口組傘下の船内荷役会社に打撃を与えていきます。1966年4月、三友企業の岡精義が恐喝罪で逮捕されます(*12)。三友企業は、甲陽運輸同様山口組傘下の船内荷役会社です。岡精義は田岡一雄の舎弟であり、終戦後の1945年10月に、港湾荷役の下請業及び土建業の三宅組を設立するなど、山口組の船内荷役業に最も詳しかった人物です(*13)。岡精義は戦時中も、徴用された東南アジアで軍船荷役に数年間携わるなど、荷役経験が豊富でした(*13)。また1966年6月、田岡一雄も全港振の役員及び甲陽運輸社長を辞任することになります(*12)。1966年6月、山口組の威光を背景に力を振るってきた全港振が解散します(*12)。

 

 また同じ1966年6月、港湾運送事業法が改正され、元請の倉庫会社は引き受け量の70%以上を直接荷役することが課せられました(*14)。元請の1次下請に出せる量が100%から30%に大幅削減されたことを意味しています。また下請に出す場合でも、下請企業を株式保有により支配することが、元請に求められたのです(*14)。結果、田岡一雄の甲陽運輸は三菱倉庫らの元請3社の影響下に置かれ、岡精義の三友企業も元請会社の影響下に置かれることになりました(*14)。他の傘下会社も同様、神戸港の船内荷会社から山口組勢力が消えていったのです。1959年3月、1966年6月の2回に渡る港湾運送事業法改正により、「港湾荷役業の下請の仕組み自体」は廃止の方向にあったことが読み取れます。

 

 また港湾荷役業界においては、コンテナという技術革新がありました(*15)。1968年、日本の海運大手がコンテナ船を就航させ始めるなど、コンテナ利用が本格化していきます(*15)。溝口敦によれば「コンテナは、今まで五日かかった一万重量トンクラスの貨物船荷役を半日ですませ、船舶の年間運航日を、従来の二百日から三百日へと大幅にひきのばした」とのことで、港湾荷役の業務内容が大きく変わりました(*15)。港湾荷役において、人的労働力を大量に投入せずに、済むようになったのです(*15)。結果、「暴力装置を担保とする労働者の確保と管理」というヤクザの得意仕事も需要が減っていくことになりました。

 

<引用・参考文献>

*1 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、2015年、講談社+α文庫), p61

*2 同上, p67

*3 同上, p82

*4 同上, p89

*5 横浜市サイト(港湾局)「コンテナバージ輸送(コンテナ専用はしけ輸送)の詳細」

*6 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、2015年、講談社+α文庫), p87-88

*7 同上, p268-270

*8 同上, p260-262

*9 同上, p287-288

*10 同上, p278-279

*11 同上, p275-277

*12 同上, p18-28

*13 同上, p84-85

*14 同上, p344-346

*15 同上, p351-352

ホント(?_?)

「当店は風俗店ではございませんので性的サービスは一切ありません」。

 

というメンズエステの広告の情報は、ホント(?_?)

安目を売らず、堂々と!!

 やっぱりというか、組織における新人の立場って、ほんとにないもんですよね。

 

 でもそれは分かってたことですし。実績もなく、貢献もせず、逆に手間をかけさせてる存在は、多少軽く扱われるのは致し方ないこと。でも飲み会とかでは、大口叩けないので、その辺は辛い…。

 

 コツコツ実績積んでいくしかありません。分からないことは、恥を恐れず、ビシバシ聞いて、確認していくことです。「しつこい奴」と思われてナンボです。聞かなかったミス、それにより発生したミスが、一番悔まれますし。大きな損害につながってしまう要因です。勉強もコツコツと。

 

 失敗を恐れず、常に新しいことにも取り組んでみることもしていきます。他人の目、口は一切気にせず。これと思ったことを貫いていきたいと思います。

 

 安目を売らず、堂々と!!張り切ってやっていくのみです!!!

松戸での銃撃事件

 昨日の松戸での銃撃事件。稲川会の元2次団体・箱屋一家トップが乗る車が銃撃された結果、乗用車に乗っていた1人が重傷に至っています。犯人はいまだ自首していません。

 

 とはいえ、裏社会の文脈を考えれば、おおよそ攻撃した側の見当はつきますが…。

 

 箱屋一家に限らず、稲川会を離脱した組織は過去に銃撃にあっています。2013年12月、当時稲川会から離脱して独立団体として活動していた山梨俠友会トップ佐野照明の乗る車が銃撃される事件が起きています。

 

 それにしても、山口組系組織の分裂で世間の注目がヤクザ社会に集まる中での今回の犯行。今回の犯行には、大きなメッセージも当然あるはずです。ヤクザ社会が揺れ動いています。