山口組と船内荷役業

 太平洋戦争後、兵庫県神戸市を本拠地とする山口組は1960年代まで神戸港の荷役業に深く関与していました。明治開始以降、国際貿易の港として位置づけられた神戸港は発展していきます(*1)。港の利用増加とともに、港湾荷役の業務も大量に発生していきます。機械化の進んでいない当時、揚荷(船から陸あげされた荷物)の業務は、人的労働力で賄われていました。港湾荷役業務を遂行する上で、重要な役割を果たすのが、大量の労働者の確保と管理です。揚荷の業務内容よりも、労務面の是非が港湾荷役業の鍵を握っていたのです。大量の男性を集めて、港湾荷役の仕事をさせるには、一定の強い力が必要となります。明治以降、暴力装置を担保とする組織つまりヤクザ組織が自ずと港湾荷役業の仕事を担っていました。戦前の山口組、初代組長・山口春吉の時代から、山口組神戸港の港湾荷役業に取り組んでいました(*2)。

 

 戦後、神戸港港湾施設の多くがアメリカ軍に接収されます(*3)。戦争の影響により、神戸港も国際貿易の港としての役割を失っていました(*3)。しかし戦後復興に伴い、神戸港の復活が予想されていました。三代目組長・田岡一雄が率いる山口組神戸港の港湾荷役業を再び手掛けようとしていました。神戸港の港湾荷役の仕事を狙うヤクザ組織は、山口組以外にも、当時の神戸には複数いました。中山組はハシケ(港運船)業、五島組は沿岸荷役業、本多会は倉庫と沿岸荷役業を得意分野としていました(*4)。ちなみにハシケとは、自走できない特殊な港運船のことです(*5)。昔の港は水深を十分確保するのが困難で、大きな貨物船は直接港に接岸できませんでした(*5)。よってハシケを使い港内の貨物船から沿岸まで荷物を運んでいたのです(*5)。当時の山口組は、どこの組織も深く入り込んでいなかった船内荷役業を手掛けていきます(*4)。ライバル組織と競合する分野に進出するのを避け、隙間の船内荷役業を選んだのです。

 

 1950年6月朝鮮戦争勃発、神戸港で港湾荷役業の仕事が増加します(*6)。1952年3月以降アメリカ軍から神戸港の返還が始まります(*6)。環境が整備される中、山口組神戸港の港湾荷役業で重要な位置を占めるべく、対外活動を活発化していきます。1956年3月、港湾荷役会社の全国組織・全国港湾荷役振興協会(全港振)が結成されます(*4)。結成に大きな役割を果たした田岡一雄は副会長兼神戸支部長の役職に就きます(*4)。全港振は、ヤクザ組織の団体ではなく、表世界で活動する企業の団体です。なぜ山口組トップの田岡一雄が就けたのでしょうか。1953年1月、田岡一雄は船内荷役業の甲陽運輸株式会社を設立、社長に就いていました(*4)。田岡一雄は「表世界の顔」として「甲陽運輸株式会社社長」の地位を手に入れていたのです。暴対法のない時代ゆえに、ヤクザ組織の長が企業の社長になることは許されていました。全港振は「港湾荷役会社の業界団体」として剛腕ぶりを発揮しました。1964年9月、ノルウェーの貨物船「スルナ号」が神戸港の第一防波堤の外側に停泊中、台風の影響により岸壁に激突、浸水する事故が起きます(*7)。事故を受け、東京の会社岡田サルベージが復元作業にあたるとともに、離礁準備のため荷おろしもしました(*7)。全港振神戸支部は船内荷役免許非保有の岡田サルベージの荷おろし行為を非難します(*7)。加えて、全港振神戸支部は岡田サルベージにハシケを供給していた大阪の会社にハシケ供給を止めさせて、岡田サルベージの復元作業を中断に追い込んだのです(*7)。結局、岡田サルベージ社長が神戸に向かい、浸水していないエリアの荷役を全港振に振ることで、解決に至りました(*7)。全港振が当時、実業の世界で大きな影響力を持っていたこと示すエピソードです。当然、全港振の推進力の背景には、山口組の威光がありました。

 

 山口組は甲陽運輸をはじめとした正規の船内荷役会社の経営を握る形で、神戸港の船内荷役の仕事から収益を得ていました。神戸港の船内荷役業に限れば、表面上収益の捻出方法は合法だったのです。船内荷役業に山口組が進出した当初、山口組傘下の船内荷役会社は2次下請の地位を得るに過ぎませんでした(*8)。元請は三井、三菱、住友などの財閥系の倉庫会社でした(*8)。荷物を神戸港に持ってくる船会社は財閥系の倉庫会社に荷役を依頼します。財閥系の倉庫会社は1次下請の会社に流し、1次下請の会社は甲陽運輸をはじめとした2次下請の会社に流す仕組みです。1956年時点、神戸港の輸出入貨物の7割以上は2次下請の会社により荷役されていました(*8)。しかし1959年3月、港湾運送事業法が改正され、荷役業の2次下請が禁止されました(*8)。甲陽運輸は1次下請に昇格します(*8)。また旧2次下請会社が集約化されていきます(*8)。山口組は、機に乗じて、山口組傘下の船内荷役会社と非山口組系の船内荷役会社の合併を進めていきました。山口組傘下の高砂運輸と非山口組系の甲南海運が合併し双和運輸設立、山口組傘下の吉川運輸、商栄運輸と非山口組系の協成海運が合併し日栄運輸設立の事例がありました(*8)。山口組は神戸の船内荷役業界の中で勢力を拡大していったのです。

 

 神戸港の船内荷役会社の地位は向上していきます。1962年6月、全港振神戸支部が200口の労働力確保困難を神戸港船内荷役調整協議会に申し入れをします(*9)。遡る1956年10月、発足した神戸港船内荷役調整協議会は、神戸港における1日最高荷役口数を、上限180口に設定しました(*9)。荷役の労働者は約20名1班に編成されます(*10)。班は「口」(クチ)と呼ばれていました(*10)。つまり180口とは、180班×20名=約3600名の荷役労働者のことを指します。当時の神戸港における1日最高荷役量は、「荷役労働者の1日の合計作業量」ということになります。港湾荷役会社としては、労働者の調達コストを踏まえると、上限量は予め設定されていることが望ましいです。しかし1962年6月までに1日最高荷役口数は200口(約4000名)に増加します(*9)。結果、「客」である船会社が協力金を荷役会社に支払う形で、この問題は解決されます(*9)。船会社による協力金は、神戸港だけに見られた例でした(*9)。

 

 一方、船内荷役業に伴う労務管理では、ヤクザ組織の資源である暴力装置が発動されていました。1964年時点、神戸港の船内荷役業の64.2%が日雇い労働者で占められていました(*11)。山口組支配下の船内荷役会社に人材を供給する手配師は、自己経営もしくは関係者の安宿に日雇い労働者を住まわせ、また博打場を提供していました(*11)。博打場は日雇い労働者の賃金の一部を再吸収する装置として機能しました(*11)。船内荷役業の「周辺ビジネス」も、山口組にとっては大きな収入源だったと考えられます。

 

 しかし1966年以降、山口組神戸港の船内荷役業から撤退することになります。多様な要因が絡んでの結果です。まず1964年警察庁によるヤクザ組織への厳しい取締りが開始されます。取締りは山口組傘下の船内荷役会社に打撃を与えていきます。1966年4月、三友企業の岡精義が恐喝罪で逮捕されます(*12)。三友企業は、甲陽運輸同様山口組傘下の船内荷役会社です。岡精義は田岡一雄の舎弟であり、終戦後の1945年10月に、港湾荷役の下請業及び土建業の三宅組を設立するなど、山口組の船内荷役業に最も詳しかった人物です(*13)。岡精義は戦時中も、徴用された東南アジアで軍船荷役に数年間携わるなど、荷役経験が豊富でした(*13)。また1966年6月、田岡一雄も全港振の役員及び甲陽運輸社長を辞任することになります(*12)。1966年6月、山口組の威光を背景に力を振るってきた全港振が解散します(*12)。

 

 また同じ1966年6月、港湾運送事業法が改正され、元請の倉庫会社は引き受け量の70%以上を直接荷役することが課せられました(*14)。元請の1次下請に出せる量が100%から30%に大幅削減されたことを意味しています。また下請に出す場合でも、下請企業を株式保有により支配することが、元請に求められたのです(*14)。結果、田岡一雄の甲陽運輸は三菱倉庫らの元請3社の影響下に置かれ、岡精義の三友企業も元請会社の影響下に置かれることになりました(*14)。他の傘下会社も同様、神戸港の船内荷会社から山口組勢力が消えていったのです。1959年3月、1966年6月の2回に渡る港湾運送事業法改正により、「港湾荷役業の下請の仕組み自体」は廃止の方向にあったことが読み取れます。

 

 また港湾荷役業界においては、コンテナという技術革新がありました(*15)。1968年、日本の海運大手がコンテナ船を就航させ始めるなど、コンテナ利用が本格化していきます(*15)。溝口敦によれば「コンテナは、今まで五日かかった一万重量トンクラスの貨物船荷役を半日ですませ、船舶の年間運航日を、従来の二百日から三百日へと大幅にひきのばした」とのことで、港湾荷役の業務内容が大きく変わりました(*15)。港湾荷役において、人的労働力を大量に投入せずに、済むようになったのです(*15)。結果、「暴力装置を担保とする労働者の確保と管理」というヤクザの得意仕事も需要が減っていくことになりました。

 

<引用・参考文献>

*1 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、2015年、講談社+α文庫), p61

*2 同上, p67

*3 同上, p82

*4 同上, p89

*5 横浜市サイト(港湾局)「コンテナバージ輸送(コンテナ専用はしけ輸送)の詳細」

*6 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、2015年、講談社+α文庫), p87-88

*7 同上, p268-270

*8 同上, p260-262

*9 同上, p287-288

*10 同上, p278-279

*11 同上, p275-277

*12 同上, p18-28

*13 同上, p84-85

*14 同上, p344-346

*15 同上, p351-352

テキヤ組織は全て「暴力団」として扱われる現状

 テキヤ組織は日本に現在、数多くあります。テキヤ組織は警察当局から「暴力団」つまりヤクザ組織として捉えられてきました(*1)。2017年現在、日本最大のテキヤ組織・極東会が、テキヤ組織として唯一「指定暴力団」として公安委員会から指定されています。しかし極東会以外のテキヤ組織も「非指定の暴力団」として現在扱われています(*1)。「非指定の暴力団」として扱われている有名なテキヤ組織としては、杉東会、飯島、姉ヶ崎、丁字家、箸家、博労会などがあります(*1)。2011年以降の暴排条例施行で、全国各地の祭りやイベントにおいて、テキヤ組織の露店を排除する傾向が強まっています(*2)。祭礼に警察当局が介入し、営業の1カ月前に露店営業者の名前と写真が入った書類を提出させ、構成員が含まれていないかチェックします(*2)。テキヤ組織側は構成員を露店に立たせず、構成員の家族またはアルバイトを立たせることで対応しています(*2)。構成員は現場までは同行しています(*2)。恐らく構成員の仕事は、露店の裏方業務に特化していると考えられます。また寺社の祭礼では、テキヤ組織の露店を現在も受け入れる寺社があります(*1) (*2)。

 

 テキヤ組織は元々、加入希望者の前歴を問わない組織風土があります(*3)。犯罪者が入り込みやすい集団であり、他の職集団に比べて、暴力的要素が濃い組織です(*3)。またテキヤ組織には、構成員を親分-子分の関係で扱っています(*4)。ジャーナリストの溝口敦は、警察当局がテキヤ組織を暴力団扱いにする理由として、テキヤ組織の親分-子分関係に見られる擬制血縁関係や、本家-分家などの階層構造の存在を挙げています(*1)。

 

 極東会だけが「指定暴力団」になっているのは、他のテキヤ組織よりも「暴力的傾向の強い組織」と警察当局から見なされているからでしょう。暴対法に基づく「指定暴力団」と極東会が指定されたのは1993年7月でした(*5)。1961~1967年、極東会は他のグループとともに極東愛桜連合会という組織を結成し活動していました(*6)。1964年から開始された警察庁のヤクザ組織に対する厳しい取締り運動においても、極東愛桜連合会は「広域指定暴力団」としてテキヤ組織で唯一指定されています(*7)。極東会の初代関口愛治は横浜や浅草でテキヤ稼業の修行をした後、大塚に「極東秘密探査局」という探偵社を設立します(*8)。探偵社に端を発する関口グループ(後の極東会)はテキヤ組織として、太平洋戦争後、伸張していきます(*9)。

 

 テキヤ組織として新興団体である関口グループは、露店の縄張りである「庭場」を持っていませんでした(*9)。縄張りを持たない場合、地方の縁日や祭りに行って、庭場を持つテキヤ組織(庭主)から場所を貸してもらい露店営業する「タビニン」の仕事が主になっていきます(*10)。関口グループもこの「タビニン」をしていました(*9)。同時に、太平洋戦争後、関口グループは大塚に近い池袋や新宿にも進出していきます(*9)。池袋においてはテキヤ稼業ではなく、景品買い、ノミ行為、賭博、人夫出し、キャバレーの用心棒、債権取り立てなどの多角的な裏稼業に手を伸ばしていたことが当時の警視庁の資料で明らかになっています(*9)。テキヤ稼業の縄張りを持たなかったこと、また池袋と新宿に進出できたことから、関口グループは都市型の裏稼業に取り組ことになったと考えられます(*9)。裏稼業に本格的に手を出すと、組織内で犯罪行為をする者が多くなり、他組織と揉めると暴力的手段を行使することになります。結果、関口グループつまり極東会は、警察当局からマークされるようになっていったと考えられます。

 

<引用・参考文献>

*1 『溶けていく暴力団』(溝口敦、2013年、講談社+α新書), p87-94

*2 『実話時代』2015年10月号, p34-40

*3 『テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代を辿る』(厚香苗、2014年、光文社新書), p85-86

*4 『テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代を辿る』, p139-142

*5警察庁「平成16年の暴力団情勢」

*6 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版), p72

*7 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p98

*8 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p33-43

*9 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p10-12

*10 『テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代を辿る』, p163

極東桜井總家連合会の歴史

 極東桜井總家連合会というテキヤ組織がかつて存在していました。テキヤ組織である一方、1993年7月に静岡県公安委員会から「指定暴力団」に指定されて、ヤクザ組織の側面もあった組織です(*1)。極東桜井總家連合会の初代は桜井庄之助です(*2)。桜井庄之助は1916年横浜から静岡県沼津市に移り、1921年に桜井一家を立ち上げます(*3)。極東会の初代関口愛治は、桜井庄之助の子分でした(*2)。1924年日野清吉が桜井一家二代目を継承します(*4)。桜井一家は沼津で地盤を築いていきます(*4)。

 

 1961年、関口愛治の関口一家と横浜の飴徳グループとともに、桜井一家は極東愛桜連合会を結成します(*2)同年、桜井一家トップに山田惣一が五代目として就任します(*5)。1967年、警察庁の厳しい取締りにより、極東愛桜連合会は解散します(*2)。桜井一家勢力は「桜井總家」として活動していくことになりました。1974年芹澤政雄が六代目に就任します(*5)。翌年の1975年、桜井總家は福島の桜井一家古市組、甲府の桜井一家名取組、御殿場の桜井一家遠藤組を併合して、極東桜井總家連合会を立ち上げます(*5)。連合会トップの総長には、芹澤政雄が就任しました(*5)。1994年芹澤保行が七代目を継ぎました(*6)。しかし2004~2005年頃、極東桜井總家連合会は複数に分裂します(*1) (*7)。2005年に指定暴力団の指定も外されました(*1)。2004年時点の極東桜井總家連合会の勢力は、構成員数約330人で、活動範囲は6県に及んでいました(*8)。

 

<引用・参考文献>

*1 警察庁「平成17年の暴力団情勢」

*2 『実話時代』2014年8月号, p54

*3 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版), p31,38-39

*4 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p43

*5 『ヤクザの死に様 伝説に残る43人』(山平重樹、2014年、幻冬舎アウトロー文庫), p239-240

*6 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p164

*7 『実話時代』2015年3月号, p44

*8 警察庁「平成16年の暴力団情勢」

テキヤ組織の分家名のり

 テキヤ組織が博徒系組織と異なる点の1つとして、トップ交代時における「前トップ舎弟」の扱いがあります(*1)。テキヤ組織の場合、新トップには前トップの優秀な子分が就きます(*1)。前トップ舎弟の者にとって、新トップの者は前トップ体制においては「おい」という位置にいました。逆に新トップ者にとって、前トップ体制において、前トップ舎弟は「叔父貴」という位置にいました。テキヤ組織の場合、新トップ体制になっても、前トップ舎弟は新トップ者の「叔父貴」であり続けます(*1)。一方、博徒系組織の場合、新トップには前トップの優秀な子分が就くのはテキヤ組織と同様ですが、前トップ舎弟は「新トップ者の舎弟」に関係が直されます(*1)。新トップ体制において、前トップ舎弟は「新トップ者の叔父貴」という位置から、「新トップ者の舎弟」という位置に下がることになるのです。

 

 テキヤ組織の場合、新トップ者にとって、叔父貴という「上位者」が組織内にいます。一方、博徒系組織の場合、新トップ者にとって、「上位者」は組織内になく、自らが「最上位者」として組織運営をすることができます(実際は、総裁などの名誉職者の存在がいる場合もあります)。組織運営の是非については、どちらの場合も長所と短所があります。テキヤ組織の長所としては、叔父貴という「上位者」の存在が、新トップ者の暴走化の阻止装置として働くことがあります。短所としては、新トップ者の意思決定及び指揮命令が徹底されないことがあります。一方、博徒系組織の場合、長所としては新トップ者の意思決定及び指揮命令の徹底があります。短所としては新トップ者の暴走化を阻止できないことがあります。

 

 テキヤ組織における最終的なキャリアのあり方として、テキヤ組織内トップの跡目を継ぐ他に、分家名のりがあります(*2)。テキヤ組織のキャリアは、「稼ぎこみ」→「一本」→「実子分」→「一家名乗り」→「代目」という順に進んでいきます(*3)。「稼ぎこみ」と「一本」は露店現場で活動する者で、子分の段階です(*3)。「実子分」も子分の段階に過ぎませんが、子分の中でも優秀な者という位置づけです(*3)。「一家名乗り」になった段階で、該当者は「親分」になることができます(*3)。「一家名乗り」の者は、自分の組織を立ち上げて、子分を抱えることができます(*3)。しかし所属していたテキヤ組織から完全に独立する訳ではありません。所属組織内における新たな組織の立ち上げという意味です。テキヤ組織とは、「一家名乗り」の者が率いる活動組織が集うことによって構成されているのです。従来のテキヤ組織においては、大元のテキヤ組織トップと「一家名乗り」の者の間には親分-子分の関係がありませんでした(*4)。親分-子分の関係が適用されたのは、「一家名乗り」の者が率いる活動組織内の領域だけでした。代目はテキヤ組織内トップの跡目を継ぐ者のことです。

 

 極東会の2次団体・坂井一家(千葉県鎌ケ谷市)の三代目金子忠は1957年、坂井市郎が興したテキヤ組織に入門します(*4)。金子忠は「稼ぎこみ」を約4年経験します(*4)。入門から約8年経った26歳の時に、金子忠は「一家名乗り」を許され、鎌ケ谷で金子組を立ち上げます(*4)。金子組は名目上「坂井市郎のテキヤ組織内の組織」という位置づけですが、坂井市郎の強い拘束下には置かれません。金子組には当時40人以上の子分がいました(*4)。1974年坂井市郎が引退、組織の二代目を風間翼也が継ぎました(*4)。風間翼也の二代目就任時に、金子忠は分家名のりを許されています(*4)。分家名のりした組織と分家元組織との関係については、現在手元にある資料のみでは詳細に述べることができません。しかし「一家名乗り」の組織同様、分家名のりした組織は、大元のテキヤ組織から強い拘束下に置かれることはありませんでした。1987年金子忠は、大元のテキヤ組織である坂井睦会(坂井市郎が興したテキヤ組織)の三代目を引き継ぎます(*4)。同時に、金子忠は坂井睦会を坂井連合会に改称します(*4)。組織名が示すように、複数の「一家名乗り」の組織が集う連合体の組織形態を坂井連合会はとっていたのです。

 

 坂井連合会は1次団体・極東関口会に加盟していました(*4)。当時の極東関口会も連合体の組織でした。坂井連合会に属する「一家名乗り」の組織(極東関口会の3次団体)は、坂井連合会を「自身の組織が参加する連合体の組織」、極東関口会を「自身の連合組織が参加する連合体の組織」という複雑な位置づけをしていました。対照的なのが、直参制度をとる山口組です(*5)。1950年後半以降山口組勢力拡大をし続けても、親分-子分の関係つまり垂直的な関係を傘下団体に強いてきました(*5)。1次団体トップ者と2次団体トップ者が親分-子分の関係を結ぶことで、組織関係も垂直的になるという特徴を直参制度は持っています。極東会と組織名を改めた旧極東関口会は、1994年12月直参制度を導入します(*5)。1次団体の直参制度導入の前後に、金子忠は坂井連合会を坂井一家に改称、同時に坂井一家内でも直参制度を導入しました(*4)。以降、坂井一家に属する「一家名乗り」の組織(極東会の3次団体)にとって、坂井一家とは「自身の組織の上部団体」、極東会とは「上部団体の上部団体」という単純な位置づけに変わりました。

 

<引用・参考文献>

*1 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p10-11

*2 『ヤクザ大辞典』(山平重樹監修、週刊大衆編集部編、2002年、双葉文庫), p88

*3 『テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代を辿る』(厚香苗、2014年、光文社新書), p141-142

*4 『ヤクザに学ぶ指導力』(山平重樹、2003年、幻冬舎アウトロー文庫), p237-242

*5 『ヤクザに学ぶ 伸びる男 ダメなヤツ』(山平重樹、2008年、徳間文庫), p329-334

東組

 関西のヤクザ組織で際立つ存在として知られるのが、大阪市西成区に本部を置く東組です。関西のヤクザ組織で、各府県の公安委員会から「指定暴力団」と認定されているのは2017年現在、山口組(神戸市)、神戸山口組淡路市)、東組(大阪市)、会津小鉄会(京都市)、酒梅組(大阪市)の5団体です。会津小鉄会は現在2団体に分裂しています。2015年8月山口組が分裂して、脱退勢力が神戸山口組を設立するまで、関西のヤクザ社会において山口組の影響力は大きかったです。会津小鉄会は1993年から山口組と親戚関係を結んでいます(*1)。1997年には山口組会津小鉄会の「後見人」という立場に変わり、2005年には当時のトップ図越利次が山口組トップ司忍の「代紋違いの舎弟」になりました(*1)。会津小鉄会は独立団体であるものの、1990年代から山口組の影響下に入っていったのです。酒梅組は、山口組三代目組長田岡一雄体制時(1946~1981年)に、山口組と親戚関係を結んでいます(*2)。2005年からは山口組が酒梅組の「後見人」という立場に変わり、山口組の影響を強く受けるようになります(*2)。しかし2015年8月の山口組分裂を受けて、酒梅組は神戸山口組を支持する方向を鮮明にし、山口組との親戚関係を解消しました(*1)。一方東組は、発足した1960年頃から2017年現在まで、山口組と親戚関係を結んでいません。東組は山口組の影響下に入ることなく、現在に至るまで独立団体として活動してきたのです。組織人数の減少も、東組は2団体に比べて微小にとどまっています。2004年時会津小鉄会の構成員数は約810人、酒梅組の構成員数は約210人、東組の構成員数は約170人でした(*3)。2015年時には会津小鉄会の構成員数は約140人、酒梅組の構成員数は約30人、東組の構成員数は約160人に変わっています(*4)。会津小鉄会は83%減、酒梅組は86%減という構成員数の大幅な減少率を受けたのに対し、東組は6%という減少率にとどまっています。東組の組織力の固さが窺えます。

 

 東組は1960年頃、東清により立ち上げられました(*1)。1926年生まれの東清は、出生地の奈良から大阪に来て、20代の頃から無所属の形でヤクザ組織の活動を始めました(*5)。しかしその後、東清の率いる勢力は、独立団体・池田組2次団体の信貴組の傘下に入ります(*5)。しかし1960年信貴組が解散します(*5)。東清は上部団体を持つことを選ばず、独立団体として活動していくことを選びました。ちなみに東清の本名は岸田清です(*3)。「東」は母親の旧姓です(*5)。東組の有力2次団体として知られるのが清勇会です。東組発足当初にできた組織で、設立者は東清の11歳年下の実弟・東勇です(*5) (*6)。設立時は連風会と名乗っていました(*6)。1972年組織名が連風会から清勇会に改称されました(*6)。その後東組は西成を拠点に勢力を拡大していきます(*7)。酒梅組と抗争を起こした1983年時には、東組は大阪府京都府奈良県鳥取県の4府県で活動して、264人の組員を擁していました(*8)。現在東組は、大阪府内のみで活動しており、約160人の構成員を擁しています(*4)。1983年時から比較すると、東組も組織勢力は縮小しています。現在東組トップは二代目の滝本博司です(*1)。

 

 東組の資金獲得活動は多岐に渡っています。当初東組も違法な賭博業を展開していました(*9)。また清勇会の会長代行を務めた呉本幸造(現在は引退)は、『週刊現代』2014年10月11日号「ヤクザと企業舎弟」(森功)の記事にて、過去に覚せい剤の密売、韓国ドラマのDVDコピー(日本語吹替え)、建設談合調整の稼業を東組時代にしていたことを明かしています(*10)。東組の本部がある西成は、多くのヤクザ組織が活動している地域で、同時に覚せい剤の密売が盛んです(*11) (*12)。清勇会二代目会長の川口和秀は過去に倒産整理の仕事を手掛けていました(*13)。1964年頃から、違法賭博業に関わった者を非現行でも逮捕可能になり、違法賭博業は縮小傾向に陥ります(*14)。加えて西成には、昔松田組という賭博業に強い組織がいました。松田組は最盛期には西成区に5カ所の賭場を展開していました(*15)。松田組は1975~1978年山口組と抗争を行った結果、組織の縮小にあい、1983年解散しています(*15)。また西成区に本部を持つ酒梅組も老舗博徒組織であり、賭博業に関わってきたと考えられます。東組にとって、西成には賭博業のライバルが多かったです。結果的に、東組の資金獲得活動は多岐に渡っていったことが考えられます。

 

 東組は好戦的な組織としても知られています。1973年山口組2次団体・山健組、1982年山口組2次団体・桜井組、1983年酒梅組、1983年山口組2次団体・弘田組、1985年山口組2次団体・倉本組、1987年山口組2次団体・杉組、須藤組と抗争を起こしています(*16)。1980年代まで数多くの抗争を経験しています。1973年と1982年の抗争は、互いの事務所を銃撃する内容で終了しました(*17)。一方、1983年の酒梅組との抗争においては、両団体は互いの事務所への銃撃に加えて、敵対組員に重軽傷を負わせる攻撃をしました。東組の組員は1983年3月19日、酒梅組の和歌山県御坊市の傘下事務所に押し入り、酒梅組組員2人に散弾銃を銃撃、重傷を負わせます(*18)。また同日、東組の組員は酒梅組の大阪市西成区の傘下事務所にも押し入り、酒梅組組員1人に拳銃で銃撃し、重傷を負わせます(*18)。この抗争で一般人を含む9人の死傷者が出ました(*19)。1987年の抗争においても、両方で死者5人、負傷者2人を出しました(*20)。1987年4月27日堺市内の交差点で、東組の組員が須藤組組員の乗る乗用車に銃撃しました(*20)。弾は須藤組組員の頭部に直撃し、須藤組組員は死亡しました(*20)。対して山口組は5月6日三重県尾鷲市で、東組組員がいる乗用車を銃撃し、重傷を負わせます(*20)。5月16日には堺市内の病院に入院中の東組組員を二人組の山口組ヒットマンが襲撃、射殺します (*20)。翌5月17日、東組組員が大阪・ミナミの須藤組本部事務所に1人で押し入り、須藤組組員2人を射殺します(*20)。時を経て9月23日、須藤組組員2人が大阪住之江競艇場の近くで東組組員1人を射殺します(*20)。10月28日、東組と山口組側が和解に至り、抗争は終了します(*20)。死者数の内訳は、東組の2人、山口組側の3人でした。東組が山口組側より敵対組員を多く射殺しています。1987年当時山口組は山一抗争という別の抗争を抱えていました。しかしながら巨大な山口組と互角に戦ったことから、東組は自組織の好戦性を内外に広めることができました。

 

<引用・参考文献>

*1 『実話時代』2016年9月号

*2 『実話時代』2015年7月号, p40

*3 警察庁「平成16年の暴力団情勢」

*4 警察庁平成27年暴力団情勢」

*5 『日本のヤクザ100人 闇の支配者たちの実像』(別冊宝島編集部編、2016年、宝島社), p22-23

*6 『闘いいまだ終わらず 現代浪華遊俠伝・川口和秀』(山平重樹、2016年、幻冬舎アウトロー文庫), p154

*7 『闘いいまだ終わらず 現代浪華遊俠伝・川口和秀』, p162-163

*8 『闘いいまだ終わらず 現代浪華遊俠伝・川口和秀』, p191

*9 『闘いいまだ終わらず 現代浪華遊俠伝・川口和秀』, p167-168

*10 『週刊現代』2014年10月11日号「ヤクザと企業舎弟」(森功), p60-61

*11 『潜入ルポ ヤクザの修羅場』(鈴木智彦、2011年、文春新書), p215

*12 『潜入ルポ ヤクザの修羅場』, p234

*13 『闘いいまだ終わらず 現代浪華遊俠伝・川口和秀』, p201

*14 『ヤクザ大辞典』(山平重樹監修、週刊大衆編集部編、2002年、双葉文庫), p108-109

*15 『ヤクザの散り際 歴史に名を刻む40人』(山平重樹、2012年、幻冬舎アウトロー文庫), p262-264

*16 『闘いいまだ終わらず 現代浪華遊俠伝・川口和秀』, p174-221

*17 『闘いいまだ終わらず 現代浪華遊俠伝・川口和秀』, p174-184

*18 『闘いいまだ終わらず 現代浪華遊俠伝・川口和秀』, p192

*19 『闘いいまだ終わらず 現代浪華遊俠伝・川口和秀』, p187-188

*20 『闘いいまだ終わらず 現代浪華遊俠伝・川口和秀』, p211-221

偽装分裂~新団体は神戸山口組の別動隊という可能性について考えてみた

 近年のヤクザ組織において、偽装破門の増加が指摘されています(*1)。ヤクザ組織の追放を意味する破門処分を偽装的に出すメリットとして、破門処分の元組員が「一般人」になれることがあります。実際元組員は、暴対法や暴排条例の「5年ルール」により、5年間は規制の対象とされます(*2)。元組員は、金融機関で口座を作れないなど、5年間極めて不自由な生活を強いられます(*2)。しかしながら「組織を離れた」と見なされる為、警察当局のマークは組員時代より緩くなります。偽装破門された元組員は、組織の命令を何らかの形で受けながら、「一般人」になったことで取得できたメリットを活用しつつ裏稼業に精を出していくことになります。別働隊として活動するのです。仮に捕まっても、「組織から離れている者」である以上、組織に捜査の手は及びません。

 

 本日4月30日、神戸山口組から脱退した勢力が新団体を立ち上げました。2015年8月の神戸山口組結成以降、執行部の一員として活動し、時には全国各地に足を運び組員を激励するなどして、一躍時の人となった織田絆誠が新団体の中心人物です。織田絆誠が一転して組織を割ったことに関して、意外と捉える向きがあるでしょう。神戸山口組そして織田絆誠が立ち上げる新団体にとっても、今回の分裂はマイナスです。神戸山口組にとっては「神戸山口組の広報マン」的存在だった織田絆誠を失うのはあらゆる面で手痛いです。ヤクザ稼業はイメージ商売の側面もあります。裏稼業や人材リクルートの場面で「織田絆誠」とい名前はブランドとして効いていました。一方織田絆誠にとっても、今回の行為により、大きな打撃を受けます。『最新ビジュアルDX版! 山口組分裂「六神抗争」365日の全内幕』(宝島特別取材班編、2016年、宝島社)のインタビューにおいて、織田絆誠は義理堅さや礼節さを感じさせる発言をしていました (*3)。しかし今回の行為は、結果的に神戸山口組及び山健組組長の井上邦雄を裏切ることになってしまいました。織田絆誠のイメージダウンは避けられません。得をするのは山口組側です。

 

 なぜ織田絆誠はマイナスになることを選択したのでしょうか。人事面での揉め事があったという話も聞こえてきます。

 

 1つの可能性として、「偽装分裂」をしたとは考えられないでしょうか。「神戸山口組の別動隊」としての役割を果たす為に、新団体は結成されたという可能性です。組織的犯罪処罰法民法使用者責任を用いることで、現在日本の司法は抗争事件においてヤクザ組織の上層部を逮捕及び長期刑に処することができます(*4)。2008年埼玉抗争における敵対組員殺害の件で、山口組2次団体の小西一家トップの落合勇治に、無期懲役の判決が下っています(*4)。神戸山口組側が山口組側に武力抗争を仕掛ければ、井上邦雄にまで累が及ぶことは充分にありえることです。しかしながら沈黙を保っていても、戦況は変わりません。戦況を打開するため、そして井上邦雄に累が及ぶことを避けるために、織田絆誠は今回「偽装分裂」に至ったという可能性はないでしょうか。この説をとると、山口組側への攻撃が近いことを意味します。2016年5月31日、神戸山口組2次団体・池田組の若頭が弘道会組員に射殺されています。神戸山口組側としては、報復に至らず、現在に至っています。もちろんこの説は警察当局もそして山口組側もすでにとっているはずです。山口組側への警備も厳戒態勢でとってくるはずです。危険な水域に入ってきたのかもしれません。

 

<引用・参考文献>

*1 『新装版 ヤクザ崩壊 半グレ勃興―地殻変動する日本組織犯罪地図』(溝口敦、2015年、講談社+α文庫), p208-209

*2 『実話時代』2016年4月号, p93

*3 『最新ビジュアルDX版! 山口組分裂「六神抗争」365日の全内幕』(宝島特別取材班編、2016年、宝島社), p52-77

*4 『最新ビジュアルDX版! 山口組分裂「六神抗争」365日の全内幕』(宝島特別取材班編、2016年、宝島社)「弘道会と山健組の衝突を招いたカネと暴力のバランスシート!」(猫組長), p140-141

縄張りの大家と借家人

 東京の一等地である銀座、六本木、渋谷は旧國粹会(2005年まで独立団体)の縄張りです(*1)。しかし該当の縄張り内で、違法領域における資金獲得権を主に有しているのは住吉会や稲川会の下部団体です(*1)。銀座、六本木、渋谷では旧國粹会が、住吉会や稲川会の下部団体に縄張りを貸し出す「貸しジマ」の制度が長らくとられてきました(*1) (*2)。旧國粹会が「大家」、住吉会や稲川会の下部団体が「借家人(店子)」の立場です。旧國粹会が縄張りの「所有権」を、住吉会や稲川会の下部団体が縄張りの「営業権」を有していることになります。住吉会や稲川会の下部団体は旧國粹会に地代を払います(*2)。

 

 銀座の場合、旧國粹会の2次団体・生井一家の縄張りです(*3)。バーやクラブの密集地である銀座7~8丁目は住吉会の2次団体・小林会の活動範囲とされています(*4)。2005年旧國粹会は山口組傘下に収まり、2011年10月に落合金町連合が國粹会から内部昇格する形で山口組2次団体となっています(*5)。結果、旧國粹会は山口組2次団体レベルにおいては、現國粹会と落合金町連合の2組織に分かれています。生井一家は現國粹会の2次団体として活動しています。銀座においては、現國粹会の2次団体・生井一家が「大家」、小林会が「借家人(店子)」という関係が現在も続いていると考えられます。

 

 六本木、渋谷に関しては旧國粹会の2次団体・落合一家が元々縄張りとしてきました(*3)。落合一家は、現在落合金町連合の2次団体です(*5)。落合一家も六本木、渋谷の縄張りを住吉会などの下部団体に貸し出してきました(*6)。縄張りを借りる住吉会の場合、六本木では小林会が活動しており、渋谷では向後睦会と石井会が活動しています(*6)。六本木においては、落合金町連合の2次団体・落合一家が「大家」、小林会が「借家人(店子)」という関係が現在も続いていると考えられます。渋谷においては、落合金町連合の2次団体・落合一家が「大家」、向後睦会と石井会が「借家人(店子)」という関係が現在も続いていると考えられます。

 

 旧國粹会が独立団体だった2001年、1次団体の組織形態を従来の連合型から垂直型に変更する案が工藤和義会長から提案されました(*3)。しかし生井一家、佃繁会、落合一家の3団体が反発し、3団体は旧國粹会から脱退し、内部抗争に至りました(*3)。生井一家は銀座の縄張りの所有権、落合一家は六本木と渋谷の縄張りの所有権を持つだけに、旧國粹会にとって脱退した勢力の存在は大きかったです。しかし2003年、3団体トップの引退と引きかえに、3団体が旧國粹会に復帰する案が成立したことで、抗争は終結します(*3)。

 

 「貸しジマ」の制度は一見、「大家」の組織が優位性を持っているように見えます。しかしヤクザ組織に詳しいジャーナリスト鈴木智彦は「だが場所によっては、地代をもらっている側が無理矢理、押さえ込まれているようなところもある。こうした場所で、縄張りを返却してほしいという本音が噴出せず、表面的に友好関係が維持されたのは、ひとえに店子の暴力性が強かったからに他ならない。」と述べています(*7)。「店子」の組織が強い場合もあるのです。

 

 新宿歌舞伎町は、元々独立団体・二率会の縄張りでした(*8)。二率会は老舗博徒組織の集合体で、2001年に解散しました(*9)。旧二率会の東京勢力住吉会に、神奈川と山梨勢力は稲川会に吸収されました(*c)。二率会も、歌舞伎町で活動する住吉会下部団体などに縄張りを貸し出していました(*9)。現在、歌舞伎町に多くのヤクザ組織が乱立している背景には、「借家人(店子)」の立場である住吉会が、外部のヤクザ組織の進出に対して、「大家」でない以上追い払う根拠を持ち得なかったことがあります(*9)。しかし2001年以降、住吉会は二率会の東京勢力を吸収したことにより、歌舞伎町では「借家人(店子)」の立場ではなくなりました。2001年以降、歌舞伎町での住吉会での地位が高まったことが考えられます。

 

 また中京圏でも「貸しジマ」の制度は存在していました。現在山口組の2次団体・瀬戸一家(愛知県瀬戸市)は、山口組傘下に収まる1991年まで、独立団体でした(*11)。老舗博徒組織の部類に属する瀬戸一家は愛知県や岐阜県に広大な縄張りを有していました(*11)。1960年まで岐阜県中津川市周辺の縄張りを瀬戸一家は、中京熊屋恵那分家という組織に貸し出していました(*11)。中京熊屋恵那分家は、瀬戸一家からの「借りジマ」を、さらに日本國粹会(現在の國粹会)の2次団体・信州斉藤一家(長野県諏訪市)下部団体の林組に貸し出していました(*11)。中津川市周辺の縄張りは、「瀬戸一家」→「中京熊屋恵那分家」→「林組」という経路で、又貸しされていたのです。ところが1960年中京熊屋恵那分家の親分が引退することになり、瀬戸一家中津川市周辺の縄張りを返すことになりました(*11)。瀬戸一家は、縄張りを実質運営している林組に返還を要請します(*11)。しかし林組は返還を拒否します(*11)。結果、1961年7月中津川市内で、瀬戸一家と林組及び上部団体の日本國粹会の間で抗争が勃発します(*11)。瀬戸一家側の動員力が優位に働いた結果、林組が中津川市周辺の縄張りを瀬戸一家に返還することで、抗争は終わりました(*11)。

 

 一方、西日本においては、縄張りの「所有権」は流動的なものと見なされる傾向があります(*12)。時代が代われば、縄張りの「所有権」は力のある組織に奪われるという考えです(*12)。

 

<引用・参考文献>

*1『六代目山口組ドキュメント2005~2007』(溝口敦、2013年、講談社+α文庫), p46-47

*2『実話時代』2014年8月号, p40

*3『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p41-44

*4『六代目山口組ドキュメント2005~2007』(溝口敦、2013年、講談社+α文庫), p218

*5『実話時代』2015年3月号, p45

*6 『六代目山口組ドキュメント2005~2007』(溝口敦、2013年、講談社+α文庫), p107-108

*7『ヤクザ500人とメシを食いました!』(鈴木智彦、2013年、宝島SUGOI文庫), p226

*8 『ヤクザ500人とメシを食いました!』(鈴木智彦、2013年、宝島SUGOI文庫), p228-229

*9『週刊実話』2015年12月3日号, p43

*10『実話時代』2014年6月号, p20

*11『日本のヤクザ100の喧嘩 闇の漢たちの戦争』(別冊宝島編集部編、2017年、宝島社), p178-179

*12『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p64