温泉コンパニオン

 日本各地にある温泉地ですが、風俗業界と親和性が高いことで知られています。数ある温泉地と差別化する為、温泉に加えて「風俗サービス」も別途設ける温泉地が1970年代以降目立ってきます(*1)。「温泉」+「風俗サービス」を併設した温泉地は歓楽温泉と呼ばれます(*1)。ソープランドの風俗サービスがあることで有名だったのが雄琴温泉滋賀県)、別府温泉大分県)、皆生温泉鳥取県)でした(*1)。ちょんの間は道後温泉愛媛県)と下呂温泉岐阜県)、温泉芸者は有馬温泉兵庫県)と白浜温泉(和歌山県)、温泉コンパニオンは山中温泉(石川県)と山代温泉(石川県)と、各温泉地よって風俗サービスの特色がありました(*1)。

 

 温泉芸者は今は少なくなり、温泉コンパニオンが現在流行っています(*1)。温泉コンパニオンは、胸タッチやパンツ見せ程度のサービスにとどめるタイプと、過激な性的パフォーマンスや性的サービスを提供するタイプの、2つに大別されます(*2)。過激な性的パフォーマンスとは、全裸ストリップや女体盛りなどのことです(*2)。前者のコンパニオンの時給は3000円、後者のコンパニオンの時給は5000円です(*2)。コンパニオンは派遣会社に所属して、派遣会社が温泉地施設の宴会場にコンパニオンを送り込みます(*2)。後者のコンパニオンは、宴会後、「本番」行為を提供することもあります(*2)。料金の相場は1~2万円です(*2)。

 

 温泉コンパニオンの出自として、営業成績の低いソープ嬢がいます(*2)。ソープランド側が派遣会社に紹介する形で、ソープ嬢を移籍させるのです(*2)。ソープランド側は、営業成績の低いソープ嬢を処分できる上に、紹介料ももらえます(*2)。一方派遣会社は、ソープランド側から定期的に温泉コンパニオンの人材を送り込んでもらえます。ソープランドと派遣会社は密につながっているのです。温泉コンパニオンの多くは借金を背負っており、借金を返し終わると、やめることが多いようです(*2)。それだけ温泉コンパニオンの仕事は激務なのです(*2)。

 

 また副業として温泉コンパニオンをする風俗嬢もいます(*3)。コンパニオンの仕事とは異なりますが、露天風呂のサクラの仕事もあります(*3)。露天風呂に若い女性が入っているという噂が流れることによる集客効果を期待して、ホテル側がサクラをさせています(*3)。露店風呂のサクラの時給は約1000円です(*3)。

 

<引用・参考文献>

*1 『週刊実話』2016年1月21日号「風俗新潮流 第34回 温泉風俗」(松本雷太著), p180-183

*2 『日刊ゲンダイ』2016年12月6日号(5日発行)「風俗界の本音」, p17

*3 『日刊ゲンダイ』2017年3月14日号(13日発行)「風俗界の本音」, p17

松山連合会

 1989年、四国の愛媛県松山市を拠点とする地元ヤクザ組織が集い、松山連合会が結成されます(*1)。松山連合会に参加したのは、岡本会、兵藤会、伊藤会、石鉄会、大西組です(*1)。岡本会と兵藤会は、戦後松山市勢力を張っていた郷田会を出身母体とします(*2)。1964年6月松山市で、郷田会は山口組2次団体矢嶋組と抗争をします(*2)。今治市を拠点とする矢嶋組が松山市にも活動範囲を広げ始めたことが、抗争の遠因でした(*2)。抗争の結果、郷田会トップの郷田昇は引退、郷田会は解散に至ります(*2)。旧郷田会の勢力として、引き続き松山市で活動したのが岡本会や兵藤会でした。

 

 伊藤会と石鉄会は、郷田会同様戦後松山市で活動した渡部組を出身母体とします(*1)。1961年内部抗争により、渡部組は瓦解します(*1)。旧渡部組の勢力を一部引き継いだのが、伊藤会と石鉄会でした(*1)。伊藤会は1969年、石鉄会は1976年結成されました(*1)。伊藤会と石鉄会は対立関係にありました。石鉄会の前身は柳川会です(*1)。1973年1月、柳川会トップの柳川三逑が伊藤会ヒットマン松山市内で射殺されます(*1)。

 

 渡部組内部抗争の時から、伊藤会トップ伊藤武史と柳川会トップ柳川三逑は対立関係にありました(*1)。また伊藤会は他の地元組織と協調する一方、山口組とは距離を置いていました(*1)。1977年8~10月に起きた山口組2次団体加茂田組と兵藤会の抗争に、兵藤会側として伊藤会は岡本会とともに参加しています(*2)。一方、柳川会は山口組と親しくしていました(*1)。柳川会トップ射殺事件は、複数の要因により起きたのでした。同年1973年10月柳川会は解散します(*1)。3年後の1976年、柳川三逑の実弟や柳川会幹部により興されたのが石鉄会です(*1)。1981年3月、伊藤会トップ伊藤武史が松山市内で石鉄会ヒットマンにより射殺されます(*1)。その後、目立った抗争事件を両団体は起こさず、1989年の松山連合会結成へと至ります。

 

 1989年に結成された松山連合会は、同年に生まれた西日本のヤクザ組織の親睦団体「西日本二十日会」に参加します(*3)。1990年3月、松山連合会は山口組の傘下に入ります(*1)。松山連合会は組織名称を「松山会」と改め、山口組2次団体となりました(*1)。2012年松山会二代目会長の正田悟が引退した際、松山会勢力は2次団体・矢嶋組に移籍しました(*4)。

 

<引用・参考文献>

*1 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、2011年、文庫ぎんが堂), p83-87

*2 『山口組の100年 完全データBOOK』(2014年、メディアックス), p70-72,99-103

*3 『実話時代』2017年9月号, p30

*4 『六代目山口組10年史』(2015年、メディアックス), p115

北海道の2次団体の出身母体

 現在、北海道では大手三団体(山口組住吉会、稲川会)のヤクザ組織の2次団体が活動しています。主要な2次団体としては、山口組では誠友会、茶谷政一家、旭導会、住吉会では勇心会、三心会など、稲川会では木暮一家、越路家一家などが、挙げられます。以上の組織(茶谷政一家を除く)は1985年以前においては、北海道の独立団体もしくはテキヤ団体の2次団体として活動していました(*1)。茶谷政一家は、誠友会の傘下団体(3次団体)で2005年、山口組2次団体に内部昇格しました(*2)。1985年以前の北海道のヤクザ社会の特徴としては、テキヤ団体が博徒系団体より勢力で上回っていることがありました(*1)。「7対3」か「8対2」と言われるほどの勢力差があり、北海道は「テキヤ王国」と形容されていました(*1)。

 

 先述した2次団体の出自を分けてみます。まず山口組においては、誠友会は博徒系、旭導会はテキヤ系です(*1)。住吉会においては、勇心会はテキヤ系、三心会は博徒系です(*1)。稲川会においては、木暮一家テキヤ系、越路家一家博徒系です(*1)。山口組の旭導会と住吉会の勇心会は、1989年以前は、寄居という大手テキヤグループの2次団体として、活動していました(*1)。旭導会は「寄居関保連合」、勇心会は「寄居勇心会」という組織名でした(*1)。誠友会と三心会と越路家一家は独立博徒系団体、木暮一家は独立テキヤ団体でした(*1)。

 

 1985年、誠友会が山口組傘下に、木暮一家と越路家一家が稲川会に入ります(*1) (*3) (*4)。1988年までに、三心会は住吉会(当時、住吉連合会)に入っています(*1)。平成元年の1989年には寄居関保連合(旭導会)が山口組傘下に、1990年には寄居勇心会(勇心会)が住吉会(当時、住吉連合会)に入りました(*1)。

 

<引用・参考文献>

*1 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社), p146-149

*2 『山口組の100年 完全データBOOK』(2014年、メディアックス), p310

*3 『実話時代』2014年8月号, p28

*4 『実話時代』2016年6月号, p39

道仁会と幸平一家の関係

 道仁会の小林哲治会長と住吉会幸平一家の加藤英幸総長は兄弟関係にあると言われています(*1)。2012年稲川会を脱退して独立団体として活動していた山梨俠友會が、2016年稲川会に復帰します(*2)。一度脱退した経緯があることから、山梨俠友會は一旦解散、名称を佐野組と改めての復帰という形がとられました(*2)。旧山梨俠友會の復帰においては、小林哲治と加藤英幸が「仲裁人」の役割を果たしました(*2)。また実話誌で二人のツーショットを目にすることもあります(*3)。

 

  元々、道仁会と幸平一家の組織同士の結びつきがありました。1983年10月6日、東京池袋にて幸平一家傘下団体の池田会と極東関口(現在の極東会)三浦連合会の間で抗争が起きました(*4)。翌日10月7日に和解し、抗争は終結に至ります(*4)。しかしこの抗争において池田会側は一般人1人と警察官1人に銃撃し、2人に怪我を負わせました(*4)。10月8日、幸平一家とその上部団体・住吉連合会は、池田会トップ池田烈と銃撃に関わった組員2名を永久破門処分にしました(*4)。

 

 翌月11月、思わぬ展開が起きました。九州の道仁会トップ古賀磯次の通知状が11月全国のヤクザ組織に送られました(*4)。通知状の内容は、道仁会が池田会の若頭以下の人員を引き取るというものでした(*4)。通知状が届く前に、永久破門処分を受けた池田烈は、九州の古賀磯次のもとに相談に行ったと言われています(*4)。池田烈の考えのもと、池田会の道仁会移籍話が生まれたと考えられます。当然、住吉連合会と幸平一家にとっては、認められない話です。住吉連合会と幸平一家は、トップと事件に関与した組員を処分したものの、池田会の組員全員を処分した訳ではないからです。

 

 池田会は当時、1972年に池袋に進出するなど、勢いを持っていました(*4)。道仁会が池田会を収めることは、道仁会の東京本格進出を意味していました。他の関東ヤクザ組織にとっても許しがたい行為です。12月、関東ヤクザ組織の親睦団体・関東二十日会は「道仁会を任俠団体と認めず、交流しない」という内容の通知状を全国のヤクザ組織に送ります(*4)。関東ヤクザ業界が、道仁会に対して敵対姿勢を明確にしたことが窺えます。しかし水面下で交渉が行われたようで、翌年1984年2月、関東二十日会は「道仁会との軋轢はなかったことにする」という内容の挨拶状を全国に送っています(*4)。結果、池田会勢力は道仁会に移籍しませんでした。池田会は現在、存在していません。

 

 しかしながら旧池田会の組員は、トップ池田烈の思いを汲み取って行動した道仁会に対して特別の感情を抱いたはずです。加藤英幸は池田会出身で、池田会の若頭補佐を務めた経歴を持っています(*5)。過去の経緯から、加藤英幸が道仁会を好意的に見ていることは想像に難くありません。

 

<引用・参考文献>

*1 『日本のヤクザ100人 闇の支配者たちの実像』(別冊宝島編集部編、2016年、宝島社), p192-193

*2 『実話時代』2016年5月号, p45

*3 『週刊実話』2017年2月9日号, p39

*4 『洋泉社MOOK・ヤクザ・流血の抗争史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p148-156

*5 『日本のヤクザ100人 闇の支配者たちの実像』, p60-61

大阪のちょんの間街

 大阪府には、現在「ちょんの間」を展開するエリアが5カ所あります(*1)。飛田新地大阪市)、松島新地(大阪市)、今里新地(大阪市)、信太山新地(和泉市)、滝井新地(守口市)の5カ所です。「新地」とは、男性向けの遊び場を指す言葉です(*2)。ちょんの間とは、ジャーナリスト鈴木智彦によれば、「時間が短いこと」を由来とする一種の売春サービスを指します(*3)。客に入浴やシャワーをさせず、数十分限りという「短時間の本番行為」の売春サービスです(*3)。本番行為の売春サービスは、日本においては違法領域です。

 

 飛田新地の色町としての歴史は古く、第1次世界大戦後、飛田新地の場所に遊郭ができ、太平洋戦争後も売春街として栄えます(*1)。1958年売春防止法が施行され、以降全国各地の売春街は消滅していきます (*1)。一方、飛田新地で売春サービスを提供してきた店は、1958年4月1日以降、料理屋として届け出を出し「表向きの転業」を図ります(*2)。飛田新地の料理屋において、「料理を運ぶ」女給と「食事目的」の男性とが自由恋愛に陥った結果、性行為に至るという解釈で、飛田新地は売春サービスを提供し続けていきます(*3)。

 

 ちょんの間街として、群を抜いているのが飛田新地です(*1)。2015年時点で、約170軒の店があり、日本最大のちょんの間街です(*1)。また女性の質(ルックス)も高いことが知られています(*1)。客が直接女性を見て選択できる「顔みせ」というサービスもあります(*1)。各店に1人の女性が座っており、気にいった女性がいる店に客が入ります(*1)。店の中では「顔見せ」の入れ替わりがあり、1986年の木村聡の取材によると、1人の女性の「顔見せ時間」は7分で、7分間に客から指名がないと、交代させられる仕組みになっています(*2)。基本的に、客は「顔見せ」中の女性しか選べません。気にいった女性を見つけた客にすれば、その女性の「顔見せ」時間は最大でも7分ということになります。他店の女性を時間をかけて比較している余裕はありません。「7分交代」のルールは、客に女性指名を即断させ上で、有効な手法と言えます。

 

 本番行為に加えて、ちょんの間のもう1つの特徴が料金の安さです。安さは、短時間によるサービスがもたらしています。飛田新地の場合、2015年時点で、15分1万1000円、20分1万6000円、30分2万1000円という一律料金となっています(*1)。飛田新地の場合、ちょんの間街の中でも、高価格帯の料金となっています(*1)。大阪のちょんの間街で、低価格な料金で知られるのが信太山新地です(*4)。2016年時点、相場は15分コース7500円以上となっています(*4)。

 

<引用・参考文献>

*1 『週刊実話』2015年10月22日号「風俗新潮流 第22回 大阪飛田新地」(慶封水著), p70~73

*2 『消えた赤線放浪記 その色町の今は…』(木村聡、2016年、ちくま文庫), p205~214

*3 『潜入ルポ ヤクザの修羅場』(鈴木智彦、2011年、文春新書), p224~225

*4 『週刊実話』2016年9月29日号「スキンレス春川が往く! 風俗裏街道」, p146~147

松葉会と松葉会関根組の和解の背景

 2014年3月松葉会から脱退し結成されたグループ(松葉会関根組)が、今年(2017年)松葉会と和解しました(*1)。和解に至ったものの、松葉会関根組のグループは松葉会に戻らず、組織名を「関東関根組」と改め、独立団体として活動していくことになりました(*1)。現在、ヤクザ組織同士が抗争を起こせば起こすほど、該当のヤクザ組織は警察当局に取締りを強化される傾向にあります。1999年に施行された組織的犯罪処罰法など、抗争事件を厳しく取り締まる法環境も整備されています(*2)。現在のヤクザ組織にとって、対立状態を抗争によって解消する方法は得策ではありません。

 

 松葉会は1994年、2次団体を「傘下団体」とする直参制度を導入しました(*3)。1953年に設立された松葉会は、1994年まで連合型の組織形態をとっていました(*4)。連合型組織において、1次団体と2次団体の間に上下関係はなく、1次団体は「各2次団体の集合体」という位置づけです。「1次団体の執行部」は存在するものの、「執行部外の2次団体トップ達」との関係は理屈上対等です(実際は実力者が執行部に入るので、力関係は対等ではないことの方が多いですが)。一方、直参制度が厳密な山口組では、1次団体と2次団体の間に上下関係は明確に存在し、「1次団体の執行部」による意思決定は「執行部外の2次団体トップ達」にとって絶対に従わなければなりません。連合型組織の時代が長かった影響もあり、直参制度の導入後も、松葉会は2次団体の自主性を尊重する傾向にありました(*5)。

 

 2014年の内部分裂以前、2009年にも松葉会は内部分裂を起こしています(*6)。当時の松葉会トップ牧野国泰会長(五代目)の跡目問題が発端です(*6)。荻野義朗会長代行グループと伊藤芳将幹事長グループが対立した結果、伊藤グループが松葉会同志会という組織を結成します(*6)。荻野義朗は群馬県に拠点を置く大久保一家のトップであり、伊藤芳将は茨城県鹿嶋市に拠点を置く國井一家のトップでした(*4)。しかし2009年、山口組と稲川会のすすめもあって、両グループは和解します(*6)。六代目会長には荻野義朗が就任し、伊藤グループの松葉会同志会は松葉会に戻りました(*6)。会長を引退した牧野国泰はかつて大久保一家のトップ、十代目総長でした(*4)。十一代目総長として後を継いだのが荻野義朗でした(*4)。つまり荻野義朗は牧野国泰から、2次団体(大久保一家)と1次団体(松葉会)の両方を引き継いだことになります。牧野国泰と荻野義朗のつながりは深いです。現在の大久保一家トップは、十二代目総長の小池清一です(*4)。ちなみに小池清一は、関東ヤクザ組織の盃事の媒酌人としても活躍する人物です(*4)。

 

 2014年3月、荻野義朗は会長職を2009年対立関係にあった伊藤芳将に譲り、総裁職に就きます(*1)。この新人事に反発して脱退したのが松葉会関根組(現在の関東関根組)のグループです。荻野義朗出身母体の大久保一家、伊藤芳将の出身母体の國井一家は松葉会に残留しました。しかし松葉会関根組には2014年の組織発足当初から、牧野国泰(松葉会五代目会長、大久保一家十代目総長)が関わっています(*1)。松葉会関根組の後ろに牧野国泰が控えている格好です。松葉会総裁の荻野義朗は、引き立ててくれた牧野国泰には遠慮せざるをえません。松葉会と松葉会関根組の和解の背景には、警察当局の取締り強化の回避以外に、牧野国泰の存在もあったことが考えられます。

 

<引用・参考文献>

*1 『実話時代』2017年6月号, p23-25

*2 『最新ビジュアルDX版! 山口組分裂「六神抗争」365日の全内幕』(宝島特別取材班編、2016年、宝島社)「弘道会と山健組の衝突を招いたカネと暴力のバランスシート」(猫組長), p140

*3 『実話時代』2014年5月号

*4 『実話時代』2017年3月号, p28-30

*5 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社), p65

*6 『実話時代』2015年7月号, p37

連合型組織形態をとる住吉会の2次団体(親和会と丸唐会)

 住吉会は現在、2次団体を「垂直的な下部団体」として位置づける直参制度をとっています (*1)。親子関係で表現すれば、1次団体・住吉会を「親」、各2次団体を「子」とする関係です。住吉会は1991年から、直参制度を導入しています(*2)。前年1990年、住吉会の前身組織である住吉連合会の会長に西口茂男が就任します(*3)。1991年、西口茂男は住吉連合会を住吉会に改称します(*3)。直参制度の取り入れも、西口茂男のもと行われました(*3)。西口茂男会長と2次団体トップ達の間で、兄弟盃と親子盃が交わされました(*2)。1991年以前の住吉会の前身組織は、連合型の組織形態をとっていました。1次団体と2次団体の間に「上下関係」は成立しておらず、「2次団体の集まり」という性格が強い1次団体でした。

 

 1991年から始まった住吉会の直参制度は、1999年以降一旦休止します(*1)。1999年、住吉会会長が西口茂男から福田晴瞭に代わります(*1)。新会長の福田晴瞭は、2次団体トップ達と兄弟盃と親子盃を交わすことはありませんでした(*1)。1999年以降、組織形態の見方からすれば、住吉会は連合型組織に戻ったのです。しかし1999~2014年の福田会長時代、住吉会の多くの2次団体は、住吉一家という2次団体の傘下に入りました(*1)。つまり多くの2次団体が「名目上3次団体化」したのです。住吉一家の傘下に入らなかった2次団体は、幸平一家と土支田一家の2団体でした(*1)。つまり福田会長時代の住吉会の「2次団体」は、住吉一家、幸平一家、土支田一家の3団体ということになります。住吉一家を「疑似の親」とする形で、1次団体・住吉会は幸平一家と土支田一家を除く2次団体を垂直的に治める方法にシフトしたのです。2014年、住吉会会長が福田晴瞭から関功に代わります(*3)。新会長の関功は、住吉一家の傘下団体と幸平一家、土支田一家を「住吉会の垂直的な下部団体」とする1991~1999年の直参制度に戻し、現在に至っています(*3)。

 

 組織形態の複雑な経過が示すように、住吉会は現在も連合型の色合いが強い組織といえます。また2次団体の中でも、連合型の組織形態をとっている団体があります。北関東3県に勢力を張る親和会、茨城県福島県勢力を張る丸唐会は連合型の組織です(*4) (*5)。親和会は、栃木、光京、大島、大和屋、矢畑、勘助、羽黒、山越、武士、泉、須永、田野、稲葉、下馬木、駒生などの15以上の団体(3次団体)から構成される連合型の組織です(*4) (*5)。3次団体数の多さが示すように、住吉会の中でも「大所帯」の組織として親和会は位置づけられています(*4)。3次団体の多くは博徒組織を母体としています(*5)。丸唐会は、平、小名、中島、小柳、神谷などの5団体以上の団体(3次団体)から構成される連合型の組織です(*4)。平一家は、建設業にも進出していた歴史を持っています(*4)。親和会と丸唐会は、昭和40年代(1965~1974年)の頃に、住吉連合(住吉会の前々組織)に加入したと言われています(*6)。

 

<引用・参考文献>

*1 『別冊 実話時代 龍虎搏つ!広域組織限界解析Special Edition』(2017年6月号増刊), p87

*2 『ヤクザに学ぶ 伸びる男 ダメなヤツ』(山平重樹、2008年、徳間文庫), p333

*3 『実話時代』2017年5月号, p24-27

*4 『別冊 実話時代 龍虎搏つ!広域組織限界解析Special Edition』, p94,96

*5 『山口組 分裂抗争の全内幕』(西岡研介+鈴木智彦+伊藤博敏+夏原武 ほか、2016年、宝島SUGOI文庫), p298-299

*6 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p219