國粋会を収めた山口組の東京における優位性

 現在山口組の2次団体で、東京を拠点にする國粋会は、元は独立した1次団体でした。山口組傘下に入る発端になったのが、2001年に陥った内部抗争です。國粋会は、東京をはじめとする関東の伝統ある博徒組織を母体とするヤクザ組織が集い、1958年「日本國粋会」という組織名で設立されました。1991年國粋会に組織名が変更されています。國粋会は、参加組織を一律に横並びとする連合体の形態をとっていました。組織の長である「國粋会会長」が参加組織に対して絶対的な命令権を持たない仕組みです。伝統ある博徒組織を母体にするヤクザ組織を多く抱えていた背景から、國粋会は首都圏に広大な縄張りを持っていました。他の関東ヤクザ組織に「貸しジマ」という形で縄張りを貸し出し、対価として縄張りの地代を得ていました。「首都圏縄張りのオーナー」の色合いを強く持つヤクザ組織です。『六代目山口組ドキュメント2005~2007』(溝口敦著、講談社+α文庫)によれば2005年時点で、「東京、千葉、神奈川など一都六県に構成員約470人、準構成員約600人」(p.46)の人員がいました。また1972年結成当初からの関東二十日会のメンバーでもありました。

*今回記事を作成するにあたり、『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、洋泉社)、『山口組の100年 完全データBOOK』(メディアックス)、『六代目山口組ドキュメント2005~2007』(溝口敦著、講談社+α文庫)、『実話時代』2014年5・6・11月、2015年2・3月号の情報を参考にさせて頂きました。

 

 2001年3月國粋会の工藤和義会長は、組織を強固にする為、連合体を廃止し「親分・子分」制度を採り入れることにしました。「親分・子分」制度を採れば、参加組織は「傘下組織」に変わり、会長命令は絶対になります。しかし國粋会に所属する生井一家、佃繁会、落合一家の3団体が、「親分・子分」制度の導入に反対します。工藤和義会長側は強硬の構えで、3団体の長に「絶縁処分」という厳しい脱退処分を下します。4月以降関東各地で、工藤和義会長側と3団体の間で抗争が始まりました。工藤和義会長側は、工藤会長が稲川会の稲川裕紘・三代目会長と「舎弟」の関係を持っていた事から、稲川会に近い立場でした。一方、3団体側は住吉会と近い距離にありました。國粋会の内部抗争は、稲川会と住吉会を巻き混み、複雑の様相を呈していました。その後、山口組2次団体・山健組の仲介が奏功し、2003年10月内部抗争は終結します。3団体の長の引退と引き換えに、3団体が國粋会に復帰することで、事態は収拾しました。各ヤクザ組織に送られた復縁状には、当時の山健組組長桑田兼吉の名が、仲介の労の形で入っていました。山口組が國粋会に深く入り込んだことを、関東ヤクザ側に示した格好になりました。

 

 2005年8月山口組において、組織の長が替わりました。新たに六代目組長に就いたのが、名古屋を拠点とする2次団体・弘道会を率いてきた司忍です。1カ月後の2005年9月、國粋会は関東二十日会を脱退、山口組の傘下に入ります。関東の有力1次団体を傘下に収めるにあたり、発足したばかりの六代目山口組は厚遇で対応します。工藤会長は司忍の「舎弟」になると同時に、山口組の最高顧問になりました。六代目山口組において、1次団体としての組長・若頭クラスに次ぐ地位に就いたのです。國粋会の山口組入りは、東京に初めて山口組が2次団体を構えたことを意味します。また「首都圏縄張りのオーナー」の最終的決定権が、國粋会から山口組に移行したことも意味していました。國粋会の縄張りを借りている関東ヤクザ側からすれば、今後山口組の意向次第で、縄張りを返還する事態が浮上したのです。縄張りを失う関東ヤクザ組織は苦境に陥ります。山口組が現状維持を採る可能性もあります。しかし縄張りを借りている関東ヤクザ側は、最終的決定権を持つ山口組に常に配慮しなければならなくなったのです。山口組は首都圏の縄張りに多大な影響力を及ぼすことができるようになりました。

 

 余波は2007年2月、山口組側と住吉会側の抗争を勃発させます。國粋会工藤会長の拳銃自殺という悲劇もあり、抗争は終結します。2014年3月関東ヤクザ側は関東二十日会を解消し、山口組2次団体になった國粋会を新たなメンバーとして迎える形で関東親睦会を結成しました。國粋会の存在抜きには、首都圏のヤクザ社会の調整が難しいことを、物語っています。現在、六代目山口組は東京の2次団体として、國粋会と落合金町連合の2つの組織を持っています。落合金町連合は2011年10月、國粋会からの内部昇格という形で2次団体に格上げされました。「連合」の名前が示すように、國粋会内の落合一家、金町一家、保科一家の3団体が合併したヤクザ組織です。落合金町連合は関東親睦会に入っていません。

 

 2001~2003年の國粋会内部抗争時、工藤会長側は稲川会に近く、一方生井一家等の3団体は住吉会に近い立場にありました。もし関東ヤクザ側の稲川会と住吉会が、國粋会内部抗争時、互いの近い勢力を傘下に収めていれば、山口組は國粋会を傘下に収めることはできませんでした。関東ヤクザ側にとって「首都圏縄張りのオーナー」の最終的決定権が、國粋会から稲川会・住吉会に移行するに過ぎません。稲川会と住吉会は惜しい機会を逃したように映ります。しかし仮に稲川会と住吉会が國粋会を傘下に収めていたら、難しい問題を抱えることになったと考えられます。縄張りの再編です。地域によって、Aという縄張りを借りるヤクザ組織は稲川会系だが、Aの新しいオーナー(最終的なオーナー)が住吉会になる場合が生じます。逆にBという縄張りを借りるヤクザ組織は住吉会系だが、Bの新しいオーナー(最終的なオーナー)が稲川会になる場合もあります。複雑になる縄張り関係を単純化する為に、縄張り再編を求める声が浮上してきます。しかし調整次第では、逆に揉め事を引き起すかもしれません。両組織とも、縄張りに混乱を生じさせるまでの國粋会の変化を望んでいなかったはずです。しかし國粋会の山口組入りという異例の展開により、首都圏の縄張りを巡る状況は一変しました。山口組の政治・外交的手腕の老獪さを示した出来事でした。