横浜を巡るヤクザ組織

  3月21日深夜、神奈川県藤沢市の繁華街で、稲川会系幹部が山口組系幹部を拳銃で発砲する事件が起きました。同日、発砲した幹部は出頭し、逮捕されました。打たれた幹部は、死には至らなかったものの、重傷を負いました。ヤクザ組織間による暴力事件で、最初に被害を受けた側が報復をせず、事件の処理を警察当局に一任することはしません。ヤクザ組織は収益獲得において、暴力を基盤とします。ヤクザ組織が重要視する暴力は、一般社会に加えて、他のヤクザ組織に対しても効き目がなければいけません。ヤクザ組織間による裏社会の利権獲得競争は激しく、穏便にまとまらない場合、ヤクザ社会は暴力により事を解決します。抗争相手組織より強い暴力性を示せれば、他の組織から恐れられ、業界内での地位は上昇します。裏社会の利権を優先的に獲得でき、組織を拡大できます。抗争は「暴力装置の実力」が測られる場なのです。小さいヤクザ組織にとって業界内の「上昇経路」としての役割も果たしてきました。一方、暴力性を示すのに失敗すれば、業界内での評判は下落の一途を辿ります。ヤクザ社会の「既存の序列」を流動化させる機能が抗争にはあるのです。ヤクザ社会において抗争が持つ意味は大きく、被害を受けた側による報復は必至とする見方が妥当です。

 

 もちろん抗争を重ねてきたヤクザ社会には、抗争が無軌道に拡大しないよう、収束させる為の知識やノウハウが蓄積されてきました。ヤクザ組織より強大な暴力装置・行政権力を持つ警察当局が日本にいる以上、ヤクザ社会は抗争を一定範囲内に収める必要があるからです。ヤクザ社会内で「手打ち」と言われる和解の場が設けられ、抗争組織間で和解が成立したら、抗争は終結します。「抗争と無関係の組織が間に入り和解の場を開く」「和解が成立したら相手組織を攻撃しない」等の、業界ルールが存在して、どのヤクザ組織にも強い拘束力を与えています。暴力一辺倒に陥らず、業界内ルールを順守する規律性が、ヤクザ組織を今日まで生き残らせている一因です。

*今回記事を作成するにあたり、『山口組永続進化論』(猪野健治著、だいわ文庫)、『山口組の100年 完全データBOOK』(メディアックス)、『FOR BEGINNERS シリーズ ヤクザ』(朝倉喬司著、現代書館)、『実話時代』2014年5月号、2015年2・3・4月号、『週刊ダイヤモンド』2015年3月21日号、『選択』2014年10月号「土着権力の研究 第42回 神奈川県 藤木幸夫」の情報を参考にさせて頂きました。

 

 しかし現在、ヤクザ組織犯罪の厳罰化により、刑務所に行く組員の負担度は増しています。ヤクザ組織は抗争を避ける傾向にあります。加えて、被害を受けた山口組側が稲川会に現在報復しない理由として、両団体の同盟関係があります。事件が起きた藤沢市の東隣に位置しているのが横浜市です。太平洋戦争後、横浜は稲川会の牙城でした。しかし横浜に徐々に進出し始めた山口組が1963年、2次団体・益田組を横浜に設立します。益田組設立前の同年、横浜市内で錦政会(稲川会の旧名)と山口組との組員による争いが起き、錦政会側は山口組進出を警戒していました。しかし1972年、両団体の幹部が「親戚関係」になる盃を交わし、同盟関係を結びます。以降、節目に両団体の幹部は「親戚関係」になる盃を交わし、同盟関係を維持しています。今回の藤沢市の事件のように、下部団体同士の抗争は過去にありました。北海道・札幌に拠点を置く、山口組2次団体・誠友会と稲川会2次団体・越路一家が1989年に抗争を起こしましたが、大きくならず終結しました。現在まで、両団体は大きな抗争をせずに至っています。現在も横浜では稲川会の勢力が強く、組織行事を行う会館を横浜市に持っています。横浜を拠点にする山口組の2次団体として、益田組と浜尾組の2団体があります。山口組五代目組長・渡辺芳則体制開始時に、益田組からの内部昇格で、浜尾組は誕生しました。初代組長の浜尾将史は益田組の若頭経験者です。また双愛会(構成員200名とされる)という1次団体も横浜で活動しています。千葉県市原市を本拠地にする双愛会ですが、双愛会の初代会長・高橋寅松が横浜に基盤を持つ親分の舎弟だったことで、横浜と歴史的なつながりを持ってきました。

 

 山口組が関東地方に初めて公式拠点を横浜に置いてから、横浜以外の関東地方に2次団体を持つのは、東京の老舗ヤクザ組織・國粋会を傘下に収める2005年まで待たなければなりません。長い間、山口組唯一の「関東支店」の役割を果たしていたのが横浜の益田組です。山口組にとって横浜は親和性の高い都市でした。港町・神戸を本拠地とする山口組にとって、同じ港街の横浜は共通点が多く、動きやすい場所だったのです。1859年横浜港開港、1868年神戸港開港、港として歩んできた時間も同じです。両港のつながりも歴史があります。

 

 1926年、港湾荷役業者の全国規模の団体が設立されます。鶴酒藤兄弟会です。有力な港湾荷役事業者であった鶴井寿太郎、酒井信太郎、藤原光次郎の頭文字をとって組織名は作られました。鶴井寿太郎は神戸港でニッケル・ライオンズという外資系会社の荷役を請け負う鶴井組の親分でした。酒井信太郎は元々鶴井組で働く、鶴井寿太郎の子分でした。ニッケル・ライオンズが横浜に営業拠点を置く為に、1912年に酒井信太郎が神戸から横浜に派遣されました。横浜を新たな拠点にした酒井信太郎は酒井組を設立し、横浜港で頭角を現していきます。鶴酒藤兄弟会設立の背景には、鶴井寿太郎と酒井信太郎の人間的関係、両者が両港の港湾荷役における重要人物だったことがあります。鶴酒藤兄弟会には全国の港の荷役業者が入りました。鶴酒藤兄弟会の神戸地区責任者になったのが、山口組二代目組長・山口登です。酒井信太郎の子分格として有名なのが、藤木幸太郎、鶴岡政次郎、笹田照一の3人です。藤木幸太郎は後に藤木企業を設立、横浜港の重要人物になります。鶴岡政次郎と笹田照一は関東の大ヤクザ組織の親分になります。元々神戸にいた笹田照一は、横浜に移り横浜港で事業もしますが、一方で関東地域を基盤とする笹田一家を立ち上げます。双愛会の初代会長・高橋寅松は笹田照一の舎弟でした。

 

 1946年山口組三代目組長に就任した田岡一雄は、二代目時代に培われた「鶴酒藤兄弟会のネットワーク」を活かしていきます。ヤクザ同士の鶴岡政次郎と笹田照一は「親戚関係」の盃を交わしました。藤木幸太郎とも関係を構築します。田岡一雄は藤木幸太郎から右翼の田中清玄を紹介され、東京の政治に足場を作ります。港湾荷役という領域における神戸港と横浜港の太いパイプの存在により、山口組の横浜進出は容易になったのです。田岡一雄と藤木幸太郎の関係の濃さを物語るのが全国港湾荷役振興協会(全港振)です。1956年港湾荷役業の2次下請け団体の地位向上を目的とする団体として全港振は設立されました(1966年に全港振は解散)。一般事業にヤクザ組織が進出していた歴史の材料として、田岡一雄が全港振の副会長に就いていたことは有名です。会長は藤木幸太郎でした。藤木幸太郎の息子、藤木幸夫は父の地盤を受け継ぎ、現在横浜の政治・経済界において多大な影響力を及ぼしています。横浜カジノ誘致のキーマンとしても取り上げられています。