五代目山口組東京進出成功の要因

 神戸を拠点にしていた山口組が全国各地に勢力拡大を図った1960年代以降、武力で制圧された地元ヤクザ組織がありましたが、「山口組ブランド」に魅かれ傘下に入る有力地元ヤクザ組織もありました。五代目組長を渡辺芳則とする山口組五代目体制時(1989~2005年)に、北海道から九州に渡る120以上(1989年時点)の2次団体を抱えるヤクザ組織に山口組は膨れ上がっていました。しかし地域差に偏りがありました。五代目体制時、神奈川県横浜市を拠点にする益田組と浜尾組の2次団体を除けば、関東地方に山口組の2次団体は存在していませんでした。ヤクザ社会で実働的な役割を果たしているのが2次団体です。2次団体が拠点地を公表する狙いとして、該当地域の「縄張りの実効支配者」であることを表・裏社会両方に示すことがあります。

 

 「縄張りの実効支配者」を鮮明にすることで、縄張り介入を図る他のヤクザ組織を「縄張りを荒らす存在」として正当に非難できるからです。ヤクザ社会においても「他の縄張りを理由もなく侵してはならない」という業界ルールは存在します。「縄張りの実効支配者」を曖昧にしていれば、介入を許してしまいます。山口組2次団体の拠点地の存在は、山口組が実効支配する縄張りの地域を示しているのです。裏返せば、山口組2次団体不在地域の縄張りに、山口組が本格進出していないことを意味しています。

*今回記事を作成するにあたり、『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、洋泉社)、『山口組の100年 完全データBOOK』(メディアックス)、『現代ヤクザのウラ知識』(溝口敦著、宝島社文庫)、『六代目山口組ドキュメント2005~2007』(溝口敦著、講談社+α文庫)、『実話時代』2014年6月、2015年2月号の情報を参考にさせて頂きました。

 

 縄張りと関係なく行えるヤクザ経済活動も存在しますが、ヤクザ組織はまず縄張りを経済活動の基本に据えます。歓楽街におけるミカジメ料の徴収、違法風俗・違法賭博の運営、覚せい剤の売買を優先的に実施できるのは縄張りの管理者です。ヤクザ社会の縄張りとは、歓楽街における違法経済活動の運営・管理権の地理的範囲なのです。江戸や明治時代から関東の各都市を縄張りとしてきた地元ヤクザ組織は、戦後、関東を由来とする広域ヤクザ組織である住吉会や稲川会に加盟しました。住吉会や稲川会等の関東ヤクザ組織9団体は1972年、関東二十日会を結成します。毎月20日に定例会を行う親睦会です。縄張り面において、関東ヤクザが結束して、五代目山口組の侵入を防いでいました。

 

 しかし実際は、五代目体制以前から山口組は東京に浸食していました。五代目体制以降、その動きが加速化していきます。東京進出の実行部隊となったのが山口組有力2次団体の下部団体(山口組3次、4次団体)です。山口組3次、4次団体にとって、山口組牙城の西日本の都市は、同じ山口組上部団体に居座られています。入り込む余地がありません。とはいえ「山口組」「有力2次団体」の名前借りの対価として、上納金を払う必要があります。自ずと、山口組3次、4次団体は経済規模が桁外れに大きい東京に向かっていったのです。当然、東京の縄張りも関東ヤクザによって占められています。しかし山口組3次、4次団体にとって、同じ山口組上部団体が存在しない東京は心理的に入り込みやすい土地でした。けれども組事務所の形で堂々と拠点を構えることは関東ヤクザを刺激させます。山口組3次、4次団体は、不動産業や金融業の実企業に化けて、東京に事務所を構える方法をとりました。直接経営する方法か、ヤクザ組織の影響力が及ぶ企業いわゆる「企業舎弟」に経営させる方法をとりました。山口組企業舎弟は、不動産や金融の違法領域で稼ぐ事を目的としました。縄張りの有無に関係なく行える地上げ活動や闇金融活動です。ちなみに地上げ活動は、底地(借地権のある土地)を買い取ることを指します。底地を更地にして他者に売却する際、底地の持主の他に、借地権者の許可も必要になります。昔は、借地権者に底地の売却を応じさせる為の装置として、ヤクザ組織が用いられました。

 

 山口組企業舎弟の経済活動は、実業の暗面つまり「昼の世界の違法領域」を主戦場とします。一方、縄張りの経済活動は「夜の世界の違法領域」を主戦場とします。関東ヤクザの利権である「夜の世界の違法領域」に山口組は踏み込まなかったのです。関東ヤクザと被らない仕事を開拓したことが山口組京進出成功の要因になりました。東京進出に限らず、違法領域における新規事業を立ち上げる力は、他のヤクザ組織に比べて山口組は卓越しています。山口組の強さの源泉の1つです。『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、洋泉社)によれば、五代目体制時における東京都内の山口組勢力を警視庁が把握したところ「平成八年には六団体・二百三十人、宅見勝若頭射殺事件のあった九年は七団体・二百五十人、十年は十四団体・四百人、十一年は十七団体・四百八十人、十二年は二十団体・五百人、十三年は二十五団体・六百六十人、そして平成十四年末には三十五団体・七百五十人となっている」(p.143)と年々勢力が増していったことが分かります。山口組企業舎弟の増長ぶりを象徴するのが、2003年に摘発された山口組2次団体・五菱会(現在の清水一家)の闇金融事件です。

 

 「他の縄張りを理由もなく侵してはならない」というヤクザ業界ルールは確かに存在しますが、ヤクザ組織によっては、武力で縄張りを奪い取ることがありました。個人的な組員間の小競り合いを口実にし、争いのサイズを大きくし、いつのまにか大規模な抗争に発展させる手口です。山口組が得意とする手段です。山口組は基本的に関東地方で武力抗争を控えていました。しかし山口組の東京進出に拍車が掛かかる武力抗争が起きました。八王子抗争です。1990年2月、東京都八王子市内のスナックで、山口組宅見組下部団体の組員と二率会八王子一家下部団体の組員の間で口論が発生しました。口論が発端となり、死者を出す抗争に発展します。前年から始まった五代目体制の若頭(トップ2)となった宅見勝を組長とする宅見組は、山口組有力2次団体の1つでした。二率会は首都圏を基盤に活動する1次団体でした(2001年に解散)。八王子一家は二率会の有力2次団体として、八王子市を縄張りとして活動していました。抗争当初に宅見組下部団体の幹部2名が殺害され、報復として宅見組が二率会の事務所や幹部宅に銃撃をしました。

 

 上部団体の幹部の話し合いの末、1990年2月のうちに抗争は終結します。ヤクザ社会は「血のバランスシート」と呼ばれる被害の均衡を、抗争終結時に重んじます。両軍、被害が同じ量になれば、抗争終結の話し合いがしやすいからです。幹部2名殺害された山口組側にとって、均衡が合わない段階での終結です。しかし抗争外の領域で、埋め合わせがされました。抗争終結後、二率会側の抗争主体であった八王子一家は、二率会を脱退、稲川会に移籍することになりました。稲川会は1972年から山口組と「親戚団体」の関係を結び、同盟関係を持っています。山口組側からすれば、関東の同盟組織・稲川会に八王子市という縄張りを贈ったことになります。抗争の結果、山口組は縄張りを得る事はできなかったものの、稲川会に「貸し」を作ったのです。山口組が稲川会に対し、東京進出への便宜を期待したことは、想像に難くありません。