山口組元最高幹部の大石誉夫とは

 日本大学の名誉教授が10年前山口組の元最高幹部から2000万円を借りたものの、返済していない問題が、先週の報道で明らかになりました。山口の元最高幹部とは、1次団体・山口組最高幹部に値する顧問職と2次団体・大石組の組長を務めていた大石誉夫のことです。現在82歳の大石誉夫は2012年にヤクザ社会から引退しています。一方、大石組は現在も山口組2次団体として、岡山を拠点に活動しています。組織名が表すように、大石組は大石誉夫によって立ち上げられた組織です。大石組が山口組2次団体に昇格したのは1971年です。山口組三代目組長・田岡一雄の時代です。1971年から2012年までの41年という長期間に渡り、大石誉夫は山口組2次団体・組長として山口組の中枢部に関わってきました。現在の山口組六代目・組長である司忍が2次団体トップに就いたのが1984年です。近年の山口組において、大石誉夫同様に経験の長さを活かして、大所高所から助言・調整の役割を果たしてきた人物に、岸本才三がいます。2005年の六代目体制発足後、岸本才三は最高顧問に就任します。顧問の大石誉夫より格上の地位にいた岸本才三が2次団体トップに就いたのが1973年であり、大石誉夫の2年遅れです。大石誉夫が2012年までの山口組において相当な古株であったことを物語っています。

*今回記事を作成するにあたり『完全保存版 TOWN MOOK 山口組 百年の血風録』(週刊アサヒ芸能・特別編集、2015年、徳間書店)、『山口組の100年 完全データBOOK』(2014年、メディアックス)、『実話時代』各号、『週刊実話』2015年11月26日号、『日刊ゲンダイ』2015年11月10日号(9日発行)の情報を参考にさせて頂きました。

 

 大石誉夫は愛媛県新居浜市で、実兄の大石宮次郎とともに独立団体を結成、ヤクザの気キャリアを開始します。新居浜市時代の主な稼業として、映画館のスライド広告業がありました。テレビが普及する前、娯楽としての映像を提供する主要な場は映画館でした。映画館は日本各地に多数存在していました。今と比べて媒体としての存在感は大きく、映画本編の間に地元企業のCMフィルムが放映されていました。映画館側は対価として、地元企業に広告料をとります。広告を巡り、映画館と地元企業の間を介在したのが、大石誉夫が率いるヤクザ組織でした。つまり大石誉夫は現在の広告代理店ビジネスを稼業としていたのです。現在実業領域においてヤクザ組織の活動範囲は狭まり、詐欺などの犯罪領域でヤクザ組織の活動範囲が広がる状況下です。現在と比べて、戦後の日本はヤクザ組織が入り込める実業は多かったです。実業に絡めた経験は、後に経済ヤクザと呼ばれる大石誉夫にとって、大きな財産となったはずです。1961年、大石誉夫は岡山県に活動範囲を移します。当時岡山県のヤクザ社会で勢力を持っていたのが現金屋という組織でした。岡山県児島市を拠点とする現金屋は三宅芳一組長によって率いられていました。三宅芳一はヤクザ組織の親分であると同時に、1956年に児島市の市議会議員に当選し市議も務めていました。市議になった三宅芳一は児島市議会に大きな影響力を及ぼし、児島市の利権を現金屋に差配します。地方政治にまで関与することで、現金屋は岡山県にとどまらず、香川や愛媛、徳島まで勢力を伸張させます。大石誉夫の組織も、この頃現金屋の傘下団体になります。しかし三宅芳一が現金屋組長を引退した後、1964年現金屋は山口組の傘下に入ります。結局、現金屋は1965年に解散します。その後、岡山県内で基盤を構築した大石誉夫の組織が1971年、山口組2次団体に昇格することになります。

 

 現在の大石組は山口組側に残留していますが、大石組から内部昇格した池田組が山口組を離脱し神戸山口組側にいます。1992年に2次団体に昇格した池田組は、池田孝志を組長とし、大石組と同じく岡山に拠点を置いています。2次団体昇格後、池田組は全国各地に進出し、広域化しています。池田孝志は1982年大石組の若頭に就任し、1992年までの約10年間大石誉夫の片腕として活動していました。一方、現在大石組のトップを務めるのは井上茂樹です。2012年大石誉夫の引退に伴い、大石組組長に就任しました。井上茂樹も大石組で若頭を務めていました。山口組分裂の結果、現役時代の重要側近達が敵対関係に陥っている状況に大石誉夫は直面しています。分裂騒動後、大石組は窮地に陥っています。大石組の多くの組員が神戸山口組側に移籍したのです。大石組若頭であった前谷祐一郎が率い、愛媛県四国中央市を拠点にする功龍會は神戸山口組側に移籍しました。若頭がトップを務める組織が抜けた跡は大石組にとって大きいです。池田組という関係の深い組織が神戸山口組にいたことも、移籍の大きな誘因として働きました。当然分裂騒動は、大石誉夫にとって好ましくない事態です。最高顧問であった岸本才三は2007年に引退、2014年に死去しています。数少ない山口組有力OBである大石誉夫には、調停者としての役割を期待する声が上がってくるかもしれません。