山川一家出身者の小金井一家総長就任から見えてくるもの

 山口組分裂劇の余波が続く中、東日本を勢力範囲とする稲川会において、名門ヤクザ組織・小金井一家の代目継承式が11月8日、横浜市の稲川会館で行われました。小金井一家は稲川会の2次団体。ヤクザ組織の代目継承式とは、トップ交代を儀式的に告げるイベントです。代目継承式にて、先代の瀬戸正昭総長に代わり、池田龍治が十二代目総長に就任することになりました。小金井一家は元々、関東に2001年まで存在していた1次団体・二率会の2次団体でした。1853年ペリー来航の10年前、1843年頃小金井小次郎(本名:関小次郎)によって発足された博徒組織を源流とします。小金井一家では、小金井小次郎を初代総長に位置付けています。発足以降、順調に博徒組織としての縄張りを拡大していきます。『実話時代』2016年1月号の記事によれば、「現在の小金井市から中央線沿線、新宿、そして川崎に至るという広大なものだった」という縄張りを小金井一家は2001年以前まで有していました。1958年関東の老舗博徒系ヤクザ組織が集う形で、ヤクザ組織の1次団体・日本国粋会が発足します。小金井一家も日本国粋会に参加します。しかし1969年小金井一家は日本国粋会を脱退、共に脱退した団体とともに二率会を立ち上げたのです。ちなみに日本国粋会の後継組織が、現在の山口組2次団体の國粹会です。

*今回記事を作成するにあたり『実話時代』2014年6・8月号、2015年8・10月号、2016年1月号、『週刊実話』2015年12月3日号、『山口組 分裂抗争の全内幕』(盛力健児+西岡研介+鈴木智彦+伊藤博敏+夏原武、2015年、宝島社)の情報を参考にさせて頂きました。

 

 小金井一家は広大な縄張りを有していた為、戦後勃興してきたヤクザ組織に縄張りを貸し出していきます。「シマ」(縄張り)を貸し出す、つまり「貸しジマ」です。戦後川崎市のヤクザ業界では、山川修身によって結成された山川一家(稲川会の2次団体)が伸張していました。よって小金井一家は「川崎市の縄張り」を山川一家に貸し出しました。代償として、借主の山川一家は小金井一家に「縄張りのレンタル料」を支払い続けることになりました。ところが2001年二率会は解散することになります。そして二率会の傘下団体の受け入れ先として住吉会の名前が浮上したのです。つまり小金井一家住吉会に加入することになります。山川一家にとって悪い事態です。今後も小金井一家に「縄張りのレンタル料」を払い続けるものの、小金井一家の上部団体・住吉会に配慮する必要が生まれてしまうからです。また展開によっては、住吉会の意向により「川崎市の縄張り」の返還を求められるかもしれません。山川一家にとって地盤の川崎市住吉会が進出するかもしれない事態が起きたのです。

 

 2001年3月小金井一家と山川一家間で抗争が勃発します。抗争の展開次第では、住吉会と稲川会の大規模抗争に発展する懸念もありましたが、抗争は短期間で終結します。和解の結果、二率会をまず解散させ、一旦住吉会が二率会の傘下団体を預かる形をとりました。その上で住吉会から、小金井一家川崎市のグループと山梨県の親之助一家が稲川会に移籍する形をとることで、事態の収束が図られました。一転、大きな利を得ることになったのが稲川会と山川一家です。稲川会にとっては、「借りジマ」だったエリアを、「レンタル料」を払わずに済む直轄地とすることができました。直接借りていた山川一家は建前上、稲川会側に移籍した小金井一家に「レンタル料」を払い続けることになります。しかし稲川会の「先輩」である山川一家が、稲川会の「後輩」である小金井一家に対して、優位に交渉を進められることは想像に難くありません。山川一家は現在の稲川会トップである会長(清田次郎)、ナンバー2である理事長(内堀和也)の出身母体です。稲川会において存在感は際立っています。山川一家と小金井一家の両団体の力関係からすると、現在の川崎市の縄張りは大半を山川一家に牛耳られていると、推測できます。

 

 小金井一家の名跡は、稲川会に移籍した小金井一家グループが継承することになりました。小金井一家の上部団体は「1958年~1969年 日本国粋会」、「1969年~2001年 二率会」、「2001年~ 稲川会(and住吉会)」と時代によって変遷してきました。小金井一家における固有の要因に加えて、首都圏というヤクザ組織の激戦区において、中規模ヤクザ組織が自立できないという時代環境の要因も、小金井一家の歴史に働いています。現在の小金井一家横浜市などを拠点にする傘下団体で構成されており、以前小金井一家の名前が醸し出していた「広大な縄張りを持つ」というヤクザ組織ではありません。また組織名にある小金井市とは関係の薄い組織になっています。十二代目総長に就いた池田龍治は小金井一家出身者ではなく、山川一家の出身者です。稲川会理事長の内堀和也は2次団体・山川一家総長を兼ねています。山川一家・内堀総長体制下、ナンバー2の役職である若頭を池田龍治は務めてきました。

 

 池田龍治は30代で山川一家に入り、横浜市内で池田組を結成、山川一家内で活動してきました。その後、山川一家内でありながら池田組は稲川会の直参(2次団体)に昇格します。長らく池田組は稲川会の2次団体である一方、2次団体・山川一家の傘下団体でもあるという複雑な位置づけにありました。しかし池田龍治が小金井一家総長に就任したことで、池田組は山川一家を離れ小金井一家内の組織になっています。山口組の場合、2次団体の傘下団体(3次団体)が内部昇格する際、属してした2次団体を脱退します。脱退することで、内部昇格する団体は、属していた2次団体との上下関係を解消します。例えば山口組の2次団体である司興業(名古屋市)は2015年、2次団体・弘道会の傘下団体から昇格しました。同時に、2次団体になった司興業は弘道会を脱退し、弘道会との上下関係を解消しました。つまり司興業と弘道会の関係は水平的になります。山口組と比較すると、1次団体・稲川会の組織運営に緩さが見られます。池田組の話に戻します。稲川会の慶弔は現在、2007年横浜市内に完成した稲川会館で執り行われています。稲川会館は池田組の敷地内にあり、稲川会館建設にあたって、池田組(山川一家)の果たした役割の大きさが窺えます。また池田龍治は2006年から、稲川会の執行部としても活動してきました。

 

 小金井一家出身ではなく山川一家出身の池田龍治が小金井一家総長になったことは、稲川会内で山川一家閥の力の大きさを改めて浮き彫りにしました。裏返せば、山川一家閥の膨張を嫌う層の不満が高まっていることも読み取れます。2005年稲川裕紘三代目会長が死去すると、四代目会長を巡り、稲川会は内部分裂寸前の事態に陥りました。2006年、稲川裕紘三代目会長の実子である稲川英希を会長にする代目継承式と、角田吉男を会長にする代目継承式が同日に実施される事態が起きたのです。角田吉男は山川一家に推されていました。しかし稲川会初代会長で、2006年時総裁職であった稲川聖城(稲川裕紘の父であり、稲川英希の祖父でもある)が角田吉男を承認します。結果、角田吉男が四代目会長に就任し、事態は収まりました。その時の感情のしこりが今も残っているとされています。山口組のように分裂する事態に至っていないものの、稲川会は内部分裂の火種を抱えています。