ヤクザ組織と興行

 山口組は1957~1968年頃までの10年間、神戸芸能社という興行会社を運営していました。ヤクザ組織の運営会社ですが、合法的な興行を打っていました。所属芸能人として大物歌手の美空ひばり等がいました。地方都市での歌謡コンサートの開催及びプロレス試合興行によるチケット収入により、神戸芸能社は売上を得ていました。日本のプロレス界創生期において大きな役割を果たしたプロレスラー力道山の試合の興行も神戸芸能社が担っていました。神戸芸能社が芸能界で勢いを増している時に、山口組のトップを務めていたのが三代目組長・田岡一雄です。山口組と興行の関わり合いの歴史は古いです。山口組において興行を始めたのは初代組長・山口春吉(組長在任期間1915~1925年)でした。当時の主要芸能であった浪曲や相撲の興行に携わりました。

 山口組の興行を拡大させたのが、春吉の実子である二代目組長・山口登です。まず山口組の興行を展開する部隊として山口組興行部を設立します。山口登は1932年上京、大物興行師の永田貞雄と親交を持ちます。東京の芸能界にパイプを作ったことで、興行を活性化させる有名演者を確保しやすくなったのは想像に難くありません。また山口登は1940年、当時の浪曲界のスターである広沢虎造が起こした出演トラブルの仲介を、吉本興業から依頼されます。吉本興業とは、現在TVのバラエティー番組に多くの有名芸人を供給している吉本興業株式会社のことです。山口登が「神戸興行界の顔役」だけでなく、「全国興行界において重要な位置」にいたことを物語る話です。仲介の為、東京の浅草にある広沢虎造関係者の事務所に山口登が向かう際、広沢虎造出演トラブルを巡り対立する組織・籠寅組(現在の後継組織は合田一家)の組員により襲撃されます。山口登は死には至りませんでしたが重傷を負いました。2年後の1942年、山口登は死去します。しかし戦前の二代目組長・山口登時代(1925~1942年)に培った興行のノウハウ、全国の興行会社と結んだネットワークは、三代目時代の神戸芸能社の活動を大いに助けることになります。

*今回記事を作成するにあたり『実話時代』2015年10月号、11月号「芸能・興行界の大立者 永田貞雄という男 こうして戦後の興行界は動き出した」(猪野健治著)、『山口組の100年 完全データBOOK』(2014年、メディアックス)、『山口組 分裂抗争の全内幕』(盛力健児+西岡研介+鈴木智彦+伊藤博敏+夏原武、2015年、宝島社)の情報を参考にさせて頂きました。

 戦前及び戦後しばらくまでの時期、山口組以外のヤクザ組織も興行を展開していました。籠寅組組員による山口登襲撃の事件が示すように、ヤクザ組織のトップを狙うほど、ヤクザ組織において重要なシノギ(事業)でした。表面上の興行は、芸能人を管理・派遣する芸能事務所、興行師、地方興行を取り仕切る地元の興行会社の3主体によって担われていました。興行の主催は、地元の興行会社単独の場合や、芸能事務所との共催の場合もありました。また芸能事務所とA興行会社が契約した後に、A興行会社が興行権をB興行会社に売り渡すこともありました。「興行権の卸し」をする興行会社もあったのです。ヤクザ組織は地元の興行会社を直接的もしくは間接的に経営していました。また芸能事務所を経営するヤクザ組織もありました。神戸芸能社が典型的な例です。ヤクザ組織の専門稼業である賭博と異なり、興行は専門の興行師という「ヤクザ組織の外部」に頼る必要がありました。有名芸能人への出演依頼、演目の構成、集客など、興行には多くのことが求められます。ヤクザ組織が関与する興行会社は、興行師の協力なくしては、成り立たないのです。

 もちろんヤクザ組織自身が興行において果たす役割もありました。会場時の有名芸能人の身辺保護、客の誘導・整理など、警備業務はヤクザ組織により担われていました。警備会社がまだなかった時代、暴力装置を持つヤクザ組織にとって、警備業務は親和性が高かったです。加えて、ヤクザ組織の「営業力」も興行において大きな役割を果たしていました。特に博徒系ヤクザ組織は、賭場に遊びに来る旦那衆(つまり社長などの地域の金持ち)とつながりを持っています。旦那衆は、興行のチケットを一定数買ってもらえる存在です。旦那衆との日常的なつながりを有するヤクザ組織は、チケットの捌き役としては適任なのです。また暴力装置を活用し、魅力に欠ける興行チケットを無理に旦那衆に買わせることもヤクザ組織はできます。負の要素も多分に含みながら、当時のヤクザ組織には「営業力」がありました。そして芸能界側もヤクザ組織を頼りにしました。

 1955~1965年における全国の主要興行グループを北から南に見ていきましょう。北海道の興行は、本間興業の独壇場でした。本間誠一をリーダーとする本間興業は旭川を拠点として、函館、小樽、札幌等に30数館の小屋を所有していました。本間興業は、興行会社としては珍しくヤクザ組織とつながりはありませんでした。しかし北海道で興行を図る興行師は、最初に本間興業に足を運ぶ必要がありました。東北では、自由芸能という興行会社が大きな存在感を持っていました。関東では、興行激戦区である為、巨大な興行会社が生まれませんでした。信越地区の興行においては、シバタの独壇場でした。興行会社でありながら、シバタサーカスというサーカス団を展開していました。本拠地の新潟県新発田山形県福島県群馬県などに、80館以上の直営館を展開していました。名古屋地区は、鵜飼興業が有名でした。鵜飼興業もヤクザ組織とは無縁でしたが、愛知県、三重県岐阜県における興行において、ヤクザ組織との調整役を果たしていました。京都府和歌山県奈良県北陸地方では、関西芸能が地元ヤクザ組織との仲介役として、存在感を発揮していました。大阪府兵庫県四国地方中国地方は神戸芸能社の独壇場でした。1960年代前半、山口組は全国各地に進出していきます。多数の抗争を伴いながら、山口組は各地のヤクザ組織を吸収していき、広域団体としての礎を築いた時期です。進出するきっかけとして、用いられた方法の1つが神戸芸能社の興行です。神戸芸能社の興行を巡り、地元興行会社側つまり地元ヤクザ組織と揉める原因を作り、抗争に至るというパターンが繰り返されました。山口組の武力侵攻と神戸芸能社の動きはつながっていたのです。

 また興行界の業界ルールとして、同じ地域において、新規興行会社は既存興行会社の興行内容に重複しないことが求められました。例えば、既存興行会社がプロレスを扱っている場合、新規興行会社はプロレス興行をせず、歌謡コンサート等を興行とする必要がありました。また既存興行会社が多方面の興行を扱っていた場合、新規興行会社は既存興行会社の「下請け」として活動することになります。しかし1964年から警察庁が開始した第1次頂上作戦により、ヤクザ組織が関与する興行は公共施設で開催されなくなりました。当時、現在のように多数の人々を収容できる民間施設の会場はなく、興行の主な会場は体育館や大講堂などの公共施設でした。警察庁により公共施設利用不可となった事態は、ヤクザ組織にとって興行の撤退を意味していました。神戸芸能社の場合、1968年頃には活動停止に陥りました。1970年代以降、表立ってヤクザ組織が興行に関与することは減りました。しかし水面下では、ヤクザ組織と興行の関わりは残り続けています。