中京五社会の構成団体の行方

  1991年3月、中京地区の地元ヤクザ組織が続々と山口組の傘下に入り、中京地区における山口組支配が強まりました(*1)。結果、中京地区の地元ヤクザ組織で構成されていた親睦団体・中京五社会解散に至りました(*1)。中京五社会は1986年、平野家一家、稲葉地一家、瀬戸一家、導友会、運命共同会の5団体により発足されました(*2)。

 

 平野家一家、稲葉地一家、瀬戸一家は明治時代の頃から中京地区で活動してきた老舗博徒組織です(*2)。瀬戸一家は、愛知県や岐阜県に広大な縄張りを持っていることで知られていました(*3)。導友会も明治時代に興された博徒組織・三吉一家を源流とする組織です(*2)。三吉一家は熱田を縄張りとしていたと言われています(*2)。三吉一家の有力組織・松波会の旧勢力が1968年、新組織・導友会を立ち上げます(*2)。加えて、導友会にはテキヤ組織も加盟していました(*2)。熊屋本家、薬屋連合会などのテキヤ組織が導友会に入っていました(*2)。

 

 中京五社会残りの1団体である運命共同会は、他の4団体と異なり、複雑な組織形態になっていました。運命共同会自体も、複数のヤクザ組織が集う形の連合体組織でした(*4)。その中でも、中核組織として有名だったのが、愛豊同志会、中京浅野会、鉄心会の3団体でした(*5)。運命共同会は1979年4月発足しました(*5)。さらに愛豊同志会の中でも、有力組織として知られていたのが、愛知県豊橋市を本拠地とする平井一家です(*4)。平井一家は幕末から続く伝統のある組織です(*6)。

 

 中京地区の地元ヤクザ組織が山口組入りに至った発端は、1991年1月に起きた山口組2次団体・弘道会と運命共同会の抗争でした(*7)。しかし抗争という「1つの要因」だけで、中京地区の地元ヤクザ組織が山口組入りに至った訳ではありません。翌年1992年に暴対法が施行されるように、ヤクザ組織取締りの強化が1991年の時点で予想されていました。また他地域においても1980年代~1990年代前半は、独立団体が山口組住吉会、稲川会という広域団体に入ることが相次いだ時代でした。

 

 住吉会においても、1991年西海家総連合会(宮城県仙台市)が住吉会(当時:住吉連合会)入りする動きがありました(*8)。また稲川会においても、1985年越路家一家(北海道・札幌市)が稲川会入り(*9)、1987年以降青森梅家一家青森県)が稲川会入り(*10)、1989年紘龍一家福島県郡山市)が稲川会入り(*9)などの動きを見せています。広域団体の傘の下に入れば、広域団体のブランド力に与ることができます (*11) 。中京地区の地元ヤクザ組織も時代の流れに従い、山口組入りを決めたと考えられます。

 

 1991年3月、中京地区の地元ヤクザ組織は山口組入りするも、組織によって山口組内の位置づけは異なりました。中京五社会の構成団体である瀬戸一家と運命共同会の下部団体・平井一家の2団体は、山口組2次団体として傘下入りしました(*1)。一方、中京五社会の構成団体である平野家一家と導友会は弘道会の下部団体(山口組3次団体)として傘下入りしました(*1)。また運命共同会の下部団体・中京浅野会も弘道会の下部団体として傘下入りしました(*1)。中京五社会構成団体であった稲葉地一家も、遅れて1997年、弘道会の下部団体として傘下入りしました(*1)。

 

 瀬戸一家と平井一家を除き、多くの地元組織を弘道会は傘下に収めることができました。弘道会勢力は一気に拡大しました。瀬戸一家と平井一家の2団体だけが山口組2次団体になれた理由としては、経済力にあると考えられます。瀬戸一家は多数の縄張りを持ち、平井一家は愛知県東部の豊橋市という独自の基盤を持っているため、他団体よりも裏社会における資金獲得量は多かったと考えられます。1次団体におさめる多額の上納金確保に困らないと、山口組執行部から判断されたと考えられます。

 

 加えて、瀬戸一家と平井一家の「名古屋依存」の低さも、山口組2次団体になれた理由として挙げられます。弘道会の下部団体になった平野家一家、導友会、稲葉地一家、中京浅野会の中には、経済力に秀でていた組織もあったと推測されます。しかし山口組2次団体にはなれませんでした。このうち導友会、稲葉地一家、中京浅野会の3団体の共通点として、活動基盤が名古屋にあったことが挙げられます。導友会、稲葉地一家は歴史的に主に名古屋で活動してきました。中京浅野会は独立団体の頃から、本部を名古屋市千種区に置いていたことから、名古屋を中心に活動してきたと考えられます(*12)。平野家一家に関しても、資料がない為、詳細は分からないのですが、現在も本部を名古屋市に置いていることから、平野家一家も名古屋で活動してきたと推測されます。

 

 名古屋を主に基盤とする地元組織は山口組2次団体になれなかったことが見えてきます。当然、名古屋支配を目論む弘道会にとっては、望ましい展開でした。弘道会側が山口組執行部を上手く説得した結果だったのでしょう。司忍自身、1991年時若頭補佐として執行部入りしていました。また当時の五代目組長渡辺芳則も、当時の弘道会に関して「甘め」であったことが伺いしれます。前年1990年の山波抗争において、弘道会山口組側の抗争主体として、波谷組と抗争を行いました。山波抗争の「論功行賞」の意味合いも多少あったのかもしれません。

 

<引用・参考文献>

*1 『弘道会の野望 司六代目と髙山若頭の半生』(木村勝美、2015年、メディアックス), p150-151

*2 『実話時代』2015年9月号, p103-104

*3 『日本のヤクザ100の喧嘩 闇の漢たちの戦争』(別冊宝島編集部編、2017年、宝島社), p178

*4 『弘道会の野望 司六代目と髙山若頭の半生』(木村勝美、2015年、メディアックス), p145-146

*5 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、2011年、文庫ぎんが堂), p128

*6 『実話時代』2015年3月号, p33

*7 『日本のヤクザ100の喧嘩 闇の漢たちの戦争』(別冊宝島編集部編、2017年、宝島社), p218-219

*8 『実話時代』2016年8月号, p103

*9 『実話時代』2014年8月号, p28

*10 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版), p84-87

*11『山口組の100年 完全データBOOK』(2014年、メディアックス), p249-250

*12 『ヤクザの散り際 歴史に名を刻む40人』(山平重樹、2012年、幻冬舎アウトロー文庫), p142