東組

 関西のヤクザ組織で際立つ存在として知られるのが、大阪市西成区に本部を置く東組です。関西のヤクザ組織で、各府県の公安委員会から「指定暴力団」と認定されているのは2017年現在、山口組(神戸市)、神戸山口組淡路市)、東組(大阪市)、会津小鉄会(京都市)、酒梅組(大阪市)の5団体です。会津小鉄会は現在2団体に分裂しています。2015年8月山口組が分裂して、脱退勢力が神戸山口組を設立するまで、関西のヤクザ社会において山口組の影響力は大きかったです。会津小鉄会は1993年から山口組と親戚関係を結んでいます(*1)。1997年には山口組会津小鉄会の「後見人」という立場に変わり、2005年には当時のトップ図越利次が山口組トップ司忍の「代紋違いの舎弟」になりました(*1)。会津小鉄会は独立団体であるものの、1990年代から山口組の影響下に入っていったのです。酒梅組は、山口組三代目組長田岡一雄体制時(1946~1981年)に、山口組と親戚関係を結んでいます(*2)。2005年からは山口組が酒梅組の「後見人」という立場に変わり、山口組の影響を強く受けるようになります(*2)。しかし2015年8月の山口組分裂を受けて、酒梅組は神戸山口組を支持する方向を鮮明にし、山口組との親戚関係を解消しました(*1)。一方東組は、発足した1960年頃から2017年現在まで、山口組と親戚関係を結んでいません。東組は山口組の影響下に入ることなく、現在に至るまで独立団体として活動してきたのです。組織人数の減少も、東組は2団体に比べて微小にとどまっています。2004年時会津小鉄会の構成員数は約810人、酒梅組の構成員数は約210人、東組の構成員数は約170人でした(*3)。2015年時には会津小鉄会の構成員数は約140人、酒梅組の構成員数は約30人、東組の構成員数は約160人に変わっています(*4)。会津小鉄会は83%減、酒梅組は86%減という構成員数の大幅な減少率を受けたのに対し、東組は6%という減少率にとどまっています。東組の組織力の固さが窺えます。

 

 東組は1960年頃、東清により立ち上げられました(*1)。1926年生まれの東清は、出生地の奈良から大阪に来て、20代の頃から無所属の形でヤクザ組織の活動を始めました(*5)。しかしその後、東清の率いる勢力は、独立団体・池田組2次団体の信貴組の傘下に入ります(*5)。しかし1960年信貴組が解散します(*5)。東清は上部団体を持つことを選ばず、独立団体として活動していくことを選びました。ちなみに東清の本名は岸田清です(*3)。「東」は母親の旧姓です(*5)。東組の有力2次団体として知られるのが清勇会です。東組発足当初にできた組織で、設立者は東清の11歳年下の実弟・東勇です(*5) (*6)。設立時は連風会と名乗っていました(*6)。1972年組織名が連風会から清勇会に改称されました(*6)。その後東組は西成を拠点に勢力を拡大していきます(*7)。酒梅組と抗争を起こした1983年時には、東組は大阪府京都府奈良県鳥取県の4府県で活動して、264人の組員を擁していました(*8)。現在東組は、大阪府内のみで活動しており、約160人の構成員を擁しています(*4)。1983年時から比較すると、東組も組織勢力は縮小しています。現在東組トップは二代目の滝本博司です(*1)。

 

 東組の資金獲得活動は多岐に渡っています。当初東組も違法な賭博業を展開していました(*9)。また清勇会の会長代行を務めた呉本幸造(現在は引退)は、『週刊現代』2014年10月11日号「ヤクザと企業舎弟」(森功)の記事にて、過去に覚せい剤の密売、韓国ドラマのDVDコピー(日本語吹替え)、建設談合調整の稼業を東組時代にしていたことを明かしています(*10)。東組の本部がある西成は、多くのヤクザ組織が活動している地域で、同時に覚せい剤の密売が盛んです(*11) (*12)。清勇会二代目会長の川口和秀は過去に倒産整理の仕事を手掛けていました(*13)。1964年頃から、違法賭博業に関わった者を非現行でも逮捕可能になり、違法賭博業は縮小傾向に陥ります(*14)。加えて西成には、昔松田組という賭博業に強い組織がいました。松田組は最盛期には西成区に5カ所の賭場を展開していました(*15)。松田組は1975~1978年山口組と抗争を行った結果、組織の縮小にあい、1983年解散しています(*15)。また西成区に本部を持つ酒梅組も老舗博徒組織であり、賭博業に関わってきたと考えられます。東組にとって、西成には賭博業のライバルが多かったです。結果的に、東組の資金獲得活動は多岐に渡っていったことが考えられます。

 

 東組は好戦的な組織としても知られています。1973年山口組2次団体・山健組、1982年山口組2次団体・桜井組、1983年酒梅組、1983年山口組2次団体・弘田組、1985年山口組2次団体・倉本組、1987年山口組2次団体・杉組、須藤組と抗争を起こしています(*16)。1980年代まで数多くの抗争を経験しています。1973年と1982年の抗争は、互いの事務所を銃撃する内容で終了しました(*17)。一方、1983年の酒梅組との抗争においては、両団体は互いの事務所への銃撃に加えて、敵対組員に重軽傷を負わせる攻撃をしました。東組の組員は1983年3月19日、酒梅組の和歌山県御坊市の傘下事務所に押し入り、酒梅組組員2人に散弾銃を銃撃、重傷を負わせます(*18)。また同日、東組の組員は酒梅組の大阪市西成区の傘下事務所にも押し入り、酒梅組組員1人に拳銃で銃撃し、重傷を負わせます(*18)。この抗争で一般人を含む9人の死傷者が出ました(*19)。1987年の抗争においても、両方で死者5人、負傷者2人を出しました(*20)。1987年4月27日堺市内の交差点で、東組の組員が須藤組組員の乗る乗用車に銃撃しました(*20)。弾は須藤組組員の頭部に直撃し、須藤組組員は死亡しました(*20)。対して山口組は5月6日三重県尾鷲市で、東組組員がいる乗用車を銃撃し、重傷を負わせます(*20)。5月16日には堺市内の病院に入院中の東組組員を二人組の山口組ヒットマンが襲撃、射殺します (*20)。翌5月17日、東組組員が大阪・ミナミの須藤組本部事務所に1人で押し入り、須藤組組員2人を射殺します(*20)。時を経て9月23日、須藤組組員2人が大阪住之江競艇場の近くで東組組員1人を射殺します(*20)。10月28日、東組と山口組側が和解に至り、抗争は終了します(*20)。死者数の内訳は、東組の2人、山口組側の3人でした。東組が山口組側より敵対組員を多く射殺しています。1987年当時山口組は山一抗争という別の抗争を抱えていました。しかしながら巨大な山口組と互角に戦ったことから、東組は自組織の好戦性を内外に広めることができました。

 

<引用・参考文献>

*1 『実話時代』2016年9月号

*2 『実話時代』2015年7月号, p40

*3 警察庁「平成16年の暴力団情勢」

*4 警察庁平成27年暴力団情勢」

*5 『日本のヤクザ100人 闇の支配者たちの実像』(別冊宝島編集部編、2016年、宝島社), p22-23

*6 『闘いいまだ終わらず 現代浪華遊俠伝・川口和秀』(山平重樹、2016年、幻冬舎アウトロー文庫), p154

*7 『闘いいまだ終わらず 現代浪華遊俠伝・川口和秀』, p162-163

*8 『闘いいまだ終わらず 現代浪華遊俠伝・川口和秀』, p191

*9 『闘いいまだ終わらず 現代浪華遊俠伝・川口和秀』, p167-168

*10 『週刊現代』2014年10月11日号「ヤクザと企業舎弟」(森功), p60-61

*11 『潜入ルポ ヤクザの修羅場』(鈴木智彦、2011年、文春新書), p215

*12 『潜入ルポ ヤクザの修羅場』, p234

*13 『闘いいまだ終わらず 現代浪華遊俠伝・川口和秀』, p201

*14 『ヤクザ大辞典』(山平重樹監修、週刊大衆編集部編、2002年、双葉文庫), p108-109

*15 『ヤクザの散り際 歴史に名を刻む40人』(山平重樹、2012年、幻冬舎アウトロー文庫), p262-264

*16 『闘いいまだ終わらず 現代浪華遊俠伝・川口和秀』, p174-221

*17 『闘いいまだ終わらず 現代浪華遊俠伝・川口和秀』, p174-184

*18 『闘いいまだ終わらず 現代浪華遊俠伝・川口和秀』, p192

*19 『闘いいまだ終わらず 現代浪華遊俠伝・川口和秀』, p187-188

*20 『闘いいまだ終わらず 現代浪華遊俠伝・川口和秀』, p211-221