道仁会と幸平一家の関係

 道仁会の小林哲治会長と住吉会幸平一家の加藤英幸総長は兄弟関係にあると言われています(*1)。2012年稲川会を脱退して独立団体として活動していた山梨俠友會が、2016年稲川会に復帰します(*2)。一度脱退した経緯があることから、山梨俠友會は一旦解散、名称を佐野組と改めての復帰という形がとられました(*2)。旧山梨俠友會の復帰においては、小林哲治と加藤英幸が「仲裁人」の役割を果たしました(*2)。また実話誌で二人のツーショットを目にすることもあります(*3)。

 

  元々、道仁会と幸平一家の組織同士の結びつきがありました。1983年10月6日、東京池袋にて幸平一家傘下団体の池田会と極東関口(現在の極東会)三浦連合会の間で抗争が起きました(*4)。翌日10月7日に和解し、抗争は終結に至ります(*4)。しかしこの抗争において池田会側は一般人1人と警察官1人に銃撃し、2人に怪我を負わせました(*4)。10月8日、幸平一家とその上部団体・住吉連合会は、池田会トップ池田烈と銃撃に関わった組員2名を永久破門処分にしました(*4)。

 

 翌月11月、思わぬ展開が起きました。九州の道仁会トップ古賀磯次の通知状が11月全国のヤクザ組織に送られました(*4)。通知状の内容は、道仁会が池田会の若頭以下の人員を引き取るというものでした(*4)。通知状が届く前に、永久破門処分を受けた池田烈は、九州の古賀磯次のもとに相談に行ったと言われています(*4)。池田烈の考えのもと、池田会の道仁会移籍話が生まれたと考えられます。当然、住吉連合会と幸平一家にとっては、認められない話です。住吉連合会と幸平一家は、トップと事件に関与した組員を処分したものの、池田会の組員全員を処分した訳ではないからです。

 

 池田会は当時、1972年に池袋に進出するなど、勢いを持っていました(*4)。道仁会が池田会を収めることは、道仁会の東京本格進出を意味していました。他の関東ヤクザ組織にとっても許しがたい行為です。12月、関東ヤクザ組織の親睦団体・関東二十日会は「道仁会を任俠団体と認めず、交流しない」という内容の通知状を全国のヤクザ組織に送ります(*4)。関東ヤクザ業界が、道仁会に対して敵対姿勢を明確にしたことが窺えます。しかし水面下で交渉が行われたようで、翌年1984年2月、関東二十日会は「道仁会との軋轢はなかったことにする」という内容の挨拶状を全国に送っています(*4)。結果、池田会勢力は道仁会に移籍しませんでした。池田会は現在、存在していません。

 

 しかしながら旧池田会の組員は、トップ池田烈の思いを汲み取って行動した道仁会に対して特別の感情を抱いたはずです。加藤英幸は池田会出身で、池田会の若頭補佐を務めた経歴を持っています(*5)。過去の経緯から、加藤英幸が道仁会を好意的に見ていることは想像に難くありません。

 

<引用・参考文献>

*1 『日本のヤクザ100人 闇の支配者たちの実像』(別冊宝島編集部編、2016年、宝島社), p192-193

*2 『実話時代』2016年5月号, p45

*3 『週刊実話』2017年2月9日号, p39

*4 『洋泉社MOOK・ヤクザ・流血の抗争史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p148-156

*5 『日本のヤクザ100人 闇の支配者たちの実像』, p60-61