松山連合会

 1989年、四国の愛媛県松山市を拠点とする地元ヤクザ組織が集い、松山連合会が結成されます(*1)。松山連合会に参加したのは、岡本会、兵藤会、伊藤会、石鉄会、大西組です(*1)。岡本会と兵藤会は、戦後松山市勢力を張っていた郷田会を出身母体とします(*2)。1964年6月松山市で、郷田会は山口組2次団体矢嶋組と抗争をします(*2)。今治市を拠点とする矢嶋組が松山市にも活動範囲を広げ始めたことが、抗争の遠因でした(*2)。抗争の結果、郷田会トップの郷田昇は引退、郷田会は解散に至ります(*2)。旧郷田会の勢力として、引き続き松山市で活動したのが岡本会や兵藤会でした。

 

 伊藤会と石鉄会は、郷田会同様戦後松山市で活動した渡部組を出身母体とします(*1)。1961年内部抗争により、渡部組は瓦解します(*1)。旧渡部組の勢力を一部引き継いだのが、伊藤会と石鉄会でした(*1)。伊藤会は1969年、石鉄会は1976年結成されました(*1)。伊藤会と石鉄会は対立関係にありました。石鉄会の前身は柳川会です(*1)。1973年1月、柳川会トップの柳川三逑が伊藤会ヒットマン松山市内で射殺されます(*1)。

 

 渡部組内部抗争の時から、伊藤会トップ伊藤武史と柳川会トップ柳川三逑は対立関係にありました(*1)。また伊藤会は他の地元組織と協調する一方、山口組とは距離を置いていました(*1)。1977年8~10月に起きた山口組2次団体加茂田組と兵藤会の抗争に、兵藤会側として伊藤会は岡本会とともに参加しています(*2)。一方、柳川会は山口組と親しくしていました(*1)。柳川会トップ射殺事件は、複数の要因により起きたのでした。同年1973年10月柳川会は解散します(*1)。3年後の1976年、柳川三逑の実弟や柳川会幹部により興されたのが石鉄会です(*1)。1981年3月、伊藤会トップ伊藤武史が松山市内で石鉄会ヒットマンにより射殺されます(*1)。その後、目立った抗争事件を両団体は起こさず、1989年の松山連合会結成へと至ります。

 

 1989年に結成された松山連合会は、同年に生まれた西日本のヤクザ組織の親睦団体「西日本二十日会」に参加します(*3)。1990年3月、松山連合会は山口組の傘下に入ります(*1)。松山連合会は組織名称を「松山会」と改め、山口組2次団体となりました(*1)。2012年松山会二代目会長の正田悟が引退した際、松山会勢力は2次団体・矢嶋組に移籍しました(*4)。

 

<引用・参考文献>

*1 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、2011年、文庫ぎんが堂), p83-87

*2 『山口組の100年 完全データBOOK』(2014年、メディアックス), p70-72,99-103

*3 『実話時代』2017年9月号, p30

*4 『六代目山口組10年史』(2015年、メディアックス), p115