大日本平和会

 かつて大日本平和会というヤクザ組織がありました。1990年代公安委員会から「指定暴力団」としても指定されていました(*1)。大日本平和会は1997年5月に解散、現在は存在していません(*1)。大日本平和会の前身組織である本多会は、太平洋戦争後神戸市に拠点を置き、西日本や中部地方の各ヤクザ組織を傘下に収める広域団体でした。本多会は、同じく神戸市に拠点を持ち全国に進出していった山口組と類似した組織展開をしていたのです。1963年3月、警察庁は広域団体として5つの団体を指定します(*2)。山口組、本多会、柳川組、錦政会(現在の稲川会)、松葉会の5つです(*2)。柳川組は山口組2次団体でしたが、1960年代「山口組の先兵隊」の1つとして全国各地に積極的に進出、勢力を拡大していました。

 

 本多会は1961年3月頃、山陰の鳥取県鳥取市のヤクザ組織・菅原組を傘下に収めます(*3)。地場組織の菅原組が本多会に入った背景には、鳥取県米子市を拠点にしていた山陰柳川組と小塚組の2団体が1960年9月に、山口組傘下に入ったことがあります(*3)。「山口組の代紋」の使用権利を得た2団体は山陰地方で活動範囲を広げていきました(*3)。勢いに乗る地元のライバル組織に対抗すべく、菅原組は山口組と肩を並べていた本多会に頼ることにしたのです。

 

 当時、本多会と山口組は各地で抗争を起こしています。1957年10月徳島県小松島で本多会系福田組山口組系小天竜組の抗争、1961年10月鳥取県で本多会系菅原組と山口組系地道組(主体は地道組の傘下団体・山陰柳川組)の抗争、1963年3月岐阜県大垣市で本多会系平田会と山口組系柳川組の抗争、1964年6月愛媛県松山市で本多会系郷田会と山口組系矢嶋組の抗争等が起きています(*3)。小松島、大垣、松山の抗争では、本多会と山口組の両団体とも他の傘下組織に多数の動員をかける動きを示すなど、大規模な抗争に発展しかねませんでした(*3)。3つの抗争とも、警察組織が両団体の応援部隊を防ぎ、戦線を拡大させませんでした(*3)。また1963~1967年広島県の山村組と打越組の抗争において、本多会が山村組を、山口組が打越組を支援したことにより、広島での抗争は「代理戦争」とも呼ばれました(*3)。1960年代、各地で本多会傘下団体が山口組傘下団体と抗争したことから、当時の本多会が広域団体であったことが示されます。

 

 本多会は1940年、本多仁介により結成されました(*4)。ちなみに山口組の結成は1915年です。本多仁介は本多会会長の活動の他に、実業面でも活動実績を残しました。土建業の本多建設工業、倉庫業と港湾荷役業の大神倉庫の経営者としての顔も本多仁介は持っていました(*4)。本多仁介は1963年7月引退します(*4)。同年3月、警察庁から本多会の広域団体としての指定が、引退に影響を及ぼした要因の1つと考えられます。本多会の二代目会長に就任したのが平田勝市です(*5)。平田勝市の平田会は、兵庫県下でも支部24団体を持つなど、本多会の有力2次団体でした (*5)。1963年7月神戸のキャバレーで行われた披露宴には、当時の自民党副総裁・大野伴睦をはじめとした多くの政治家が出席しました(*5)。当時の政治家とヤクザ組織が「近い距離」にいたことを物語ると同時に、本多会が国政とも関わりがあったことを物語っています。

 

 1964年5月、平田勝市は松葉会トップの藤田卯一郎と五分の兄弟盃を交わし、両団体は親戚関係(同盟関係)となりました(*5)。同盟関係を結ぶに至ったきっかけは、1963年9月に起きた石川県山中温泉における両団体の抗争でした(*6)。1961年、温泉地に風俗サービスも備えた歓楽温泉の石和温泉山梨県)が開湯しました(*7)。同時期に、日本各地に同様の歓楽温泉が存在していました(*7)。抗争の舞台となった山中温泉、また同じ石川県の山代温泉片山津温泉は日本でも有数の歓楽温泉として有名でした(*7)。風俗サービスはヤクザ組織の利権です。また1960年代前半温泉地には常設の賭博場もあり、ヤクザ組織にとっては絶好の資金獲得の場でした(*8)。結果、本多会や松葉会も含めた多数のヤクザ組織が北陸に進出していました(*6)。1963年9月の抗争の主体は、本多会山中支部と松葉会金沢支部でした(*6)。抗争は和解に至り、その後両団体トップの兄弟盃へとつながっていきました。両団体の和解の意味とともに、本多会と松葉会の同盟関係は「対山口組」の意味を帯びていました。

 

 「兄弟」となった二人は、その後「新たな兄弟」を加えます。平田勝市と藤田卯一郎は1964年11月、5つの独立団体トップと兄弟盃を交わしました (*9)。「七人兄弟盃」です (*9) 。新たに加わった5名は、中島連合会(京都)の図越利一会長(後の三代目会津小鉄会総裁)、藤原会(大阪)の藤原秋夫会長、直嶋義友会(大阪)の山田祐作会長、稲葉地一家(愛知)の上篠義夫総裁、中泉一家(静岡)の播磨福作総長 です(*9) 。

 

 しかし本多会は、1964年から始まった警察庁の厳しい取締り「第1次頂上作戦」の結果、1965年解散します(*10)。ちなみに1965年には、錦政会(現在の稲川会)、住吉会、松葉会なども解散しています(*10)。「第1次頂上作戦」の結果、「指定十団体」のうち解散しなかったヤクザ組織は山口組と義人党だけでした (*11)。その後、旧本多会は組織再編され、組織名も大日本平和会に改称されました(*1)。組織再編を機に本多会を抜けて、独立団体として活動する道を選んだ傘下団体もありました。兵庫県姫路市を拠点にする木下会です(*12)。元々独立団体だった木下会は、後に本多会(本多仁介会長時代:1940~1963年)に加入しました(*12)。そして再び独立団体となった木下会は、二代目会長高山雅裕の下、しばらく活動していました(*12)。

 

 大日本平和会は1970年代以降、拡大の一途を辿る山口組の動きに比べると、勢力を拡大することができませんでした。「指定暴力団」に指定された1994年4月時点で、大日本平和会は兵庫、大阪、京都、鳥取、香川、愛媛の2府4県を活動範囲とし、330名の組員を抱えていました(*1)。山口組と競っていた1960年代の勢力規模から考えて、明らかに組員数が減少していたと考えられます。結果、平田勝市の跡を引き継いだ平田勝義二代目会長体制の1997年5月、解散に至ります(*1)。二代目会長の平田勝義は、平田勝市の実子です(*13)。解散の理由としては、平田勝義の後継問題、また愛媛県の有力2次団体至誠会が会長の死後解散したことによる大日本平和会の勢力減少などが挙げられます(*1)。

 

<引用・参考文献>

*1 『ヤクザに学ぶ 伸びる男 ダメなヤツ』(山平重樹、2008年、徳間文庫), p282-283

*2 『弘道会の野望 司六代目と髙山若頭の半生』(木村勝美、2015年、メディアックス), p62

*3 『山口組の100年 完全データBOOK』(2014年、メディアックス), p51-72

*4 『山口組永続進化論』(猪野健治、2008年、だいわ文庫), p215-216

*5 『実話時代』2015年1月号, p121-122

*6 『ヤクザに学ぶ交渉術』(山平重樹、2003年、幻冬舎アウトロー文庫), p248-251

*7 『週刊実話』2016年1月21日号「風俗新潮流 第34回 温泉風俗」(松本雷太著), p181-183

*8『潜入ルポ ヤクザの修羅場』(鈴木智彦、2011年、文春新書), p195

*9 『ヤクザに学ぶ交渉術』(山平重樹、2003年、幻冬舎アウトロー文庫), p257

*10 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p170

*11 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社), p36-38

*12 『実話時代』2016年8月号, p52

*13 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p54