東声会

 主に関東を拠点として活動する東声会は、戦後のヤクザ社会において異彩を放つ存在でした。現在の東声会は、暴対法による「指定暴力団」の扱いを受けていません。1957年東声会は、在日朝鮮人の町井久之によって興されました(*1)。町井久之は1923年生まれです(*2)。東声会立ち上げの1957年以前から、町井久之は同じ在日朝鮮人の不良達を集い、銀座でヤクザ組織的な活動を行っていました(*1)。東声会の組織結成において、日本の既存のヤクザ組織は関わっていません。また立ち上げ前後の東声会は既存のヤクザ組織に対して、傘下に入る動きや友好的な態度を示すことはありませんでした(*1)。

 

 東声会は既存のヤクザ組織とは対立的関係にありました。1961年10月、東声会の系列組織で新宿を拠点に活動していた三声会のトップ・三木恢が港会(現在の住吉会)組員に射殺される事件も起きています(*1) (*3)。三声会は、資金獲得面では歌舞伎町のパチンコ店、バーやキャバレーからのミカジメ料の徴収、歌舞伎町で賭博場の運営を行っていました(*3)。1961年射殺された三木恢の年齢は23歳だったことから、三声会の組織メンバーも若年者で占められていたことが考えられます(*3)。新宿で活動する既存のヤクザ組織にとっては、三声会の活動は稼業面の「浸食」と映っていました。既存のヤクザ組織と異なり、東声会は縄張りを持たない組織だった為に、他団体の領域に進出することで資金獲得をせざるをえませんでした。ゆえに「抗争」は必須で、東声会は自ずと「好戦的な組織」となっていったのです。

 

 東声会は1958年時には、約500名の組員を擁していました(*1)。またその後、組織勢力は埼玉、神奈川、群馬、大阪、沖縄に拡大して、約1600名までの組織人数を抱えるまでになりました(*1)。しかし東声会は、関東のヤクザ組織からは「新興愚連隊」として位置づけられ、関東の裏社会では孤立状態に陥っていました。孤立状態を打開する為、とった策が関西の山口組との同盟です。1963年、東声会は山口組と親戚関係(同盟関係)を結びます(*1)。山口組組長・田岡一雄を「兄」、町井久之を「弟」とする兄弟盃の為、東声会が山口組の影響下に入った形です(*1)。東声会にとっては、日本の既存のヤクザ組織の影響下に初めて入った出来事でした。以後、東声会は、1972年発足された関東博徒系ヤクザ組織の親睦団体「関東二十日会」に加わるなど、関東のヤクザ組織とは友好的関係を結ぶようになっていきます(*4)。

 

 東声会の活動において、町井久之の人脈力も大きな役割を果たしました。町井久之は右翼の大物・児玉誉士夫と親しい間柄で、田岡一雄との兄弟盃も児玉誉士夫がつなぐ形で行われました(*2)。町井久之は児玉誉士夫を経由する形で、保守政治家と関係を構築していきます(*1)。1965年の日韓国交正常化においても、町井久之は協力していきます(*1)。町井久之は韓国政財界にも人脈を有しているため、日本の政治家にとって町井久之は「韓国との裏表を問わないパイプ役」として重宝されたことは想像に難くありません(*1)。警察庁の取締り強化(第一次頂上作戦)を受けて、1966年東声会は一旦解散します(*1)。しかし翌年1967年、東亜友愛事業組合が発足、旧東声会勢力を引き継ぎます(*1)。東亜友愛事業組合トップの理事長職には平野富士松が就きました(*1)。町井久之は東亜友愛事業組合には水面下で力を及ぼしていたものの、表面上はヤクザ社会から実業界に転身をはかろうとしていきました(*1)。町井久之は大韓民国中央情報部(KCIA)の協力者とも噂されていいました(*1)。真偽は分かりませんが、その噂の立つことが、町井久之の日韓に及ぼしていた影響力の大きさを物語っています。町井久之の人脈からもたらされる恩恵が、東声会の後継団体にも、何かしらあったことは考えられます。

 

<引用・参考文献>

*1 『実話時代』2016年12月号, p32-36

*2 『日本のヤクザ100人 闇の支配者たちの実像』(別冊宝島編集部編、2016年、宝島社), p180-181

*3 『ヤクザの死に様 伝説に残る43人』(山平重樹、2014年、幻冬舎アウトロー文庫), p84-92

*4 『実話時代』2014年11月号, p28