山口組の若頭補佐の誕生

 1次団体・山口組の最高意思決定機関である執行部には「若頭補佐」がいます。若頭補佐の役職の設置時期は定かではないですが、三代目田岡一雄組長時代の1960年より前とされています(*1)。

 

 1963年時の山口組は組長・田岡一雄、若頭・地道行雄、若頭補佐に吉川勇次、山本健一、菅谷政雄、梶原清晴の4名が就いていました(*1)。しかし当時の若頭補佐は厳密にいえば、執行部ではありませんでした。1963年山口組は「七人衆制度」を導入しました(*1)。七人衆が最高意思決定機関の役割を果たしました(*1)。若頭補佐は「七人衆の下」に位置付けられていました(*1)。

 

 七人衆は舎弟頭の松本一美、舎弟の藤村唯夫、松本国松、安原武夫、岡精義、三木好美、若頭・地道行雄で構成されました(*1)。田岡一雄の「舎弟」が6名、「子分」が1名という内容です。1963年時の山口組において舎弟の存在感が大きかったことが伺えます。

 

 警察庁の取締り強化作戦(通称「頂上作戦」)により、1966年7人衆に変化が起きました(*1)。1966年5月安原武夫と岡精義が山口組を脱退、同年10月松本国松が引退、同年12月藤村唯夫が死去しました(*1)。結果、山口組に残る七人衆は3名となりました。1966年で七人衆による最高意思決定機関の役割は終えたと考えられます。

 

 以降、若頭補佐が若頭ともに、山口組の執行部を担っていくことになりました。組織内の差配において「子分」が力を持つようになったのです。

 

<引用・参考文献>

*1 『山口組若頭』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p60-66