中丸会

 

 過去、福岡県に中丸会という独立団体が活動していました。1985年中丸会は、福岡市に拠点を置くヤクザ組織の親睦団体「福博睦会」の発足と同時に加盟しました(*1)。福博睦会は中丸会を含めた9団体により構成されていました(*1)。9団体の内訳は、8つの独立団体、山口組2次団体・伊豆組でした(*1)。1990年福博睦会は「福博連合」と改称し、組織形態も親睦団体から「連合型」組織に変更しました(*1)。福博連合は、福博睦会加盟の8つの独立団体で構成されていました(*1)。伊豆組は福博連合に入りませんでした(*1)。各2次団体が月当番で「世話役」を担う形で、福博連合を動かしていまいた(*1)。1992年福博連合は「福博会」に改称しました(*1)。中丸会は道仁会(久留米市)と親交を結んでいました(*2)。中丸会トップ中丸清彦会長(*1)と道仁会最高幹部が兄弟分の仲だったことが背景にあります(*2)。1997年以前に、中丸会は解散しました(*3)。

 

<引用・参考文献>

*1 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p170-172

*2 『新・ヤクザという生き方』(安田雅企、1998年、宝島社文庫), p91-93

*3 『別冊 実話時代 山口組統一への道』(2018年1月号増刊)

高松の博徒組織・北原組

 

 香川県高松市を本拠とする親和会の源流は、博徒組織・北原組です。2018年時点、親和会は構成員約40人を抱え、香川県を活動範囲としていました(*1)。北原組は北原伝次郎により結成された博徒組織でした(*2)。1945~1954年の間に、北原伝次郎は本多会トップ本多仁介の舎弟になり、北原組は本多会の傘下に入りました(*2)。1959年柴田俊治が北原組二代目組長に就任しました(*2)。北原組二代目体制時(1959~1965年)、北原組は高松市におけるヤクザ組織の最大勢力でした(*2) (*3)。当時の高松市において北原組の対抗組織は、若林組(1958年結成)(*2)、テキヤ組織の坂井組でした(*4)。若林組は1962年山口組2次団体・地道組の傘下に入り、坂井組も同年山口組2次団体・一心会の傘下に入りました(*4)。警察庁によるヤクザ組織の取締り強化(通称:頂上作戦)を受け、1965年本多会は解散しました(*3)。上部団体・本多会の解散に伴い、同年春北原組も解散しました(*3) (*5)。同年(1965年)9月、旧北原組の細谷勝彦が旧北原組勢力を引き継ぐ形で、親和会を発足させました(*5)。北原組解散は「偽装」だったことが読み取れます。

 

<引用・参考文献>

*1 警察庁「平成30年における 組織犯罪の情勢」, p34

*2 『山口組の100年 完全データBOOK』(2014年、メディアックス), p72-73

*3 『別冊 実話時代 龍虎搏つ!広域組織限界解析Special Edition』(2017年6月号増刊), p74

*4 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、2015年、講談社+α文庫), p175

*5 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p109

テキヤ業界の異色的存在だった関東松田組

 

 太平洋戦争終了(1945年)後、東京では愚連隊を母体とするテキヤ組織が活動していました(*1)。愚連隊を母体とするテキヤ組織の名は関東松田組でした(*1)。関東松田組は戦後、新橋の闇市を支配していました(*2)。関東松田組の結成者は松田義一でした(*3)。

 

 松田義一は神田錦城中学時代、学生愚連隊を率いていました(*4)。神田錦城中学卒業後、松田義一は新橋のサロンで用心棒などをし、日中戦争勃発(1937年)後、満州に渡りました(*4)。帰国後、松田義一は愚連隊を組織し、戦後新橋の闇市にてテキヤ稼業をしました(*4)。松田義一にはテキヤ組織で修行した形跡がありません。

 

 関東松田組は新橋の闇市で露店商から場所代を徴収していました(*4)。関東松田組の構成員は毎朝露店商に鑑札を配り、夕方場所代を徴収しに行きました(*4)。当時、場所代は「日銭」「ゴミ銭」とも呼ばれました(*5)。場所代は公的なものでなく、テキヤ組織の「私的な税金」(ミカジメ料)でした。

 

 関東松田組は東京露店商同業組合(1945年10月設立)の愛宕支部に加わっていました(*2)。東京露店商同業組合は警察当局から認められた組織でした(*2)。当時、行政機関の代理として、東京露店商同業組合が露店商から、税金、電灯料、道路占有料などを徴収していました(*2)。新橋の場合、東京露店商同業組合愛宕支部が露店商から徴収した後、税金を芝区役所、道路占有料を芝警察署に払っていました(*2)。新橋の闇市においては、関東松田組が「東京露店商同業組合愛宕支部のメンバー」として、税金などの徴収を請け負っていたと考えられます。闇市における売買は違法でしたが、当時行政機関が闇市を「黙認」していたことが分かります。

 

 松田義一は1945年の末、テキヤ組織の名門・松坂屋の五代目を襲名しました(*3)。松坂屋の名前の取得により、関東松田組はテキヤ組織としての「体裁」を整えることができました。松坂屋五代目の襲名から、既存テキヤ組織が関東松田組の実力を評価していたことが窺えます。しかし松田義一は1946年6月、舎弟により射殺されました(*3)。

 

 関東松田組二代目組長には松田義一の妻・松田芳子が就任しました(*6)。テキヤ業界では、女性を構成員にしないという決まりがあります(*7)。松田芳子のテキヤ組織トップ就任に対し、テキヤ業界では反対の声が上がりました (*6)。結果、松田芳子は松坂屋六代目を襲名することはできませんでした(*6)。女性をテキヤ組織トップに据えるという組織体質から、関東松田組がテキヤ業界において異色的な存在だったことが読み取れます。

 

 松田芳子組長の下、関東松田組は1946年6月17~19日華僑グループと抗争をしました(*8)。抗争の背景には、新橋の闇市を巡るトラブルがありました(*8)。関東松田組は1947年7月解散しました(*8)。関東松田組は1,000~2,000人のメンバーを有していました(*8) (*9)。解散後、旧関東松田組の一部は鹿十団に入りました(*10)。鹿十団は愚連隊組織でした(*11)。行き先としてテキヤ組織ではなく、愚連隊組織を選んだメンバーが一部いたことからも、関東松田組が「愚連隊」要素の濃い組織だったことが考えられます。

 

<引用・参考文献>

*1 『洋泉社MOOK・「愚連隊伝説」彼らは恐竜のように消えた』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p16

*2 『東京のヤミ市』(松平誠、2019年、講談社学術文庫), p154-155

*3 『洋泉社MOOK・「愚連隊伝説」彼らは恐竜のように消えた』, p73

*4 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p32-33

*5 『東京のヤミ市』, p208

*6 『親分 実録日本俠客伝①』, p39

*7 『テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代を辿る』(厚香苗、2014年、光文社新書), p19-20,141

*8 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、2011年、文庫ぎんが堂), p10-13

*9 『親分 実録日本俠客伝①』, p25

*10 『親分 実録日本俠客伝①』, p27

*11 『洋泉社MOOK・「愚連隊伝説」彼らは恐竜のように消えた』, p156

三代目山口組体制の七人衆制度

 

 三代目山口組田岡一雄組長体制(体制期間:1946~1981年)は1946年に開始しました(*1)。1946年時の山口組構成員数(舎弟、子分)は33人でした(*1)。17年後の1963年、山口組において「七人衆制度」という執行部体制が設けられました(*1)。七人衆制度では、山口組最高幹部7人(七人衆)により構成された機関は月1回の定例会において、重要事項を協議しました(*1)。七人衆の機関は「最高議決機関」でした(*2)。七人衆の機関は「最高意思決定機関」ではなかったと考えられます。山口組の最高意思決定は田岡一雄に委ねられていたと考えられます。

 

 七人衆制度導入前(1963年以前)、三代目山口組の執行部には、若頭が置かれているだけでした。七人衆制度導入前、若頭を務めていたのは安原政雄、地道行雄の2人でした(*3)。安原政雄は三代目山口組体制で初の若頭に就任、1955年頃地道行雄に若頭を譲り、舎弟になりました(*3)。地道行雄は1955年頃若頭に就任、1968 年まで若頭を務めました(*3)。1963年以前の三代目山口組における重要事項の決定は、トップの田岡一雄、若頭の安原政雄や地道行雄によって行われていたと考えられます。

 

 1957年山口組大分県徳島県で他団体と抗争をしました(*4)。以降、山口組は各地に進出、勢力を拡大していきました(*4)。組織膨張に伴い、山口組執行部(田岡一雄と地道行雄)の処理事項は増えていったと考えられます。両名は自身らだけでは処理しきれないと判断した結果、1963年から七人衆制度を導入したと考えられます。七人衆制度と同時に、若頭補佐という職も新たに設けられました(*2)。1963年時、若頭補佐職は「七人衆の機関の下」に位置付けられていました(*2)。

 

 七人衆は、地道行雄(山口組若頭)、松本一美(山口組舎弟頭)、藤村唯夫(山口組2次団体・旧南道会トップ)、松本国松(山口組2次団体・十九組トップ)、安原武夫(安原運輸社長)、三木好美(神戸芸能社長)、岡精義(三友企業社長)により構成されていました(*5)。1963年時点、七人衆のうち3人(地道行雄、松本一美、松本国松)が山口組内で2次団体(一定の勢力)を持っていました。地道行雄は地道組(神戸市)を率いていました(*5)。1957年以降の山口組の勢力拡大運動において、地道組は菅谷組、小西一家、柳川組とともに主要な役割を果たしました(*6)。松本一美は松本組(神戸市)を率いていました(*5)。松本一美は神戸市役所に務めていましたが退職、その後1949年頃「田岡一雄の舎弟」として山口組に入りました(*5)。七人衆制度導入時(1963年)に松本一美は「舎弟頭」に就任しました(*5)。しかし1967年松本一美は舎弟頭の職から降りました (*5)。松本国松は十九組(尼崎市)を率いていました(*5)。十九組の前身は愚連隊・十九会でした(*5)。十九会の結成者が松本国松でした(*5)。組織名は、松本国松の実家の八百屋が「他店では20銭で販売された物を19銭で販売していた」というエピソードから由来していました(*5)。1951年松本国松は「田岡一雄の舎弟」として山口組に入りました(*5)。

 

 藤村唯夫は1962年まで山口組2次団体・南道会を率いていました(*5)。南道会は1962年解散しました(*5)。旧南道会の幹部8人は山口組直参(山口組2次団体トップ)となりました(*5)。1962年時の南道会解散の実態は、「南道会の組織再編」だったと考えられます。藤村唯夫は1945年大阪市のミナミで南道会を結成しました(*7)。1926年頃以降(昭和初期)、大阪で最初の愚連隊「かどや」がミナミの道頓堀で結成されました(*7)。藤村唯夫は「かどや」の流れをくんでいました(*7)。南道会は愚連隊組織で、ミナミのキャバレーやバーからミカジメ料を徴収していました(*7)。南道会は最盛期で構成員約100人を抱えていました(*7)。藤村唯夫は1949年頃「田岡一雄の舎弟」として山口組に入りました(*5)。

 

 七人衆のうち、1963年前後に2次団体を持たなかった3人(安原武夫、三木好美、岡精義)は山口組の「企業舎弟」でした。安原運輸、神戸芸能、三友企業の3社は山口組と深いつながりを持つ「山口組の関連企業」でした(*5)。1963年時、3人とも経営者であり「山口組在籍者」でした(*6)。安原武夫の実弟は安原政雄でした(*5)。

 

 七人衆のうち、地道行雄だけが「田岡一雄の子分」で、残りの6人は「田岡一雄の舎弟」でした(*5)。岡精義は1946年「田岡一雄の子分」として山口組入りしましたが、後に舎弟になりました(*5)。

 

 七人衆制度導入の翌1964年、警察庁によるヤクザ組織の取締り強化(通称:頂上作戦)が開始されました(*8)。取締り強化により、1967年までに多くの1次団体が解散しました(*8)。山口組は解散せず、存続しました(*8)。しかし山口組の中では、2次団体の解散、関連企業の脱退がありました。七人衆においては1966年十九組が解散、トップ松本国松はヤクザ業界から引退しました(*5)。同年(1966年)安原運輸の安原武夫、三友企業の岡精義が山口組から脱退しました(*9)。興行を手掛けていた神戸芸能は1965年以降公共施設の利用禁止により、活動停止となりました(*10)。

 

<引用・参考文献>

*1 『洋泉社MOOK 「山口組血風録」写真で見る山口組・戦闘史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、1999年、洋泉社), p62-64,162

*2 『山口組若頭』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p62-63

*3 『山口組若頭』, p16-23

*4 『山口組の100年 完全データBOOK』(2014年、メディアックス), p444

*5 『山口組の100年 完全データBOOK』, p136-143

*6 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、2015年、講談社+α文庫), p98-100

*7 『洋泉社MOOK・「愚連隊伝説」彼らは恐竜のように消えた』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p148

*8 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p168-170

*9 『血と抗争 山口組三代目』, p358

*10 『興行界の顔役』(猪野健治、2004年、ちくま文庫), p95

工藤連合草野一家の結成時、合田一家から移籍した組織

 

 1987年6月北九州市工藤会と草野一家が合併、工藤連合草野一家が結成されました(*1)。草野一家トップ草野高明は、工藤会の前身・工藤組で若頭を務めていました(*2)。工藤組は1949年小倉で工藤玄治によって結成されました(*2)。1963年北九州市が誕生しました(*2)。1963年に起きた工藤組と山口組との抗争で、若頭の草野高明は逮捕、殺人教唆の罪で懲役10年の刑罰を処されました(*2)。1966年未決の留置場で、草野高明は工藤組からの脱退を表明しました(*2)。

 

 1977年出所した草野高明は草野一家を立ち上げました(*2)。1979年草野高明は、山口組2次団体・伊豆組トップ伊豆健児と五分の兄弟盃を交わし、山口組との関係を深めていきました(*2)。一方工藤会は、1970年設立の関西二十日会に参加していました(*3)。関西二十日会は「反山口組同盟」の意味合いが強い親睦団体でした(*3)。1979~1981年工藤会と草野一家は抗争を展開しました (*2)。

 

 1987年工藤連合草野一家の結成時、工藤会と草野一家以外で、津川組という組織も加わりました(*4)。津川組は北九州市の八幡・黒崎を活動拠点にし、上部団体を山口県下関市の合田一家としていました(*4)。津川組は上部団体を合田一家から工藤連合草野一家に変更しました。当時の合田一家が北九州市にまで影響力を及ぼしていたことが分かります。

 

<引用・参考文献>

*1 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p59

*2 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』, p54-57

*3 『実話時代』2017年9月号, p29

*4 『ヤクザの幹部をやめて、うどん店はじめました。 極道歴30年中本サンのカタギ修行奮闘記』(廣末登、2018年、新潮社), p35-36

極東関口谷畑二代目佐藤会

 

 極東関口グループにおける東北地方の有力な組織として知られたのが、極東関口谷畑二代目佐藤会でした(*1)。佐藤会前身の佐藤組は、1962年秋田県本荘市(現在の由利本荘市)で佐藤儀一によって結成されました(*1)。1928年秋田県本荘市に生まれた佐藤儀一は、17歳の時極東関口谷畑初代の谷畑松五郎の子分になりました(*1)。谷畑初代のテキヤ組織の活動拠点は青森県五所川原市でした(*1)。谷畑初代の稼ぎ込みとして、佐藤儀一は北海道、東北、関東、北陸の街々を回り、テキヤ稼業の修行を積みました(*1)。

 

 佐藤組を結成した1962年、佐藤儀一は谷畑二代目を継承しました(*1)。1971年佐藤組は秋田市に事務所を置き、勢力拡大を図りました(*1)。1974年時の秋田県の主要なヤクザ組織は源清田会系グループ4団体180人、会津家会系グループ4団体150人、姉ヶ崎系グループ5団体120人などで、テキヤ組織の勢力が大きかったです (*1)。1974年時佐藤組の組員は40人でした(*1)。数に劣る佐藤組ですが、1974年5月会津家会系グループ、1975年4月源清田会系グループの銭谷一家(秋田県能代市)と抗争をしました(*1)。銭谷一家との抗争では、同年7月源清田会系グループの島影一家(新潟県長岡市)との争いに発展、佐藤組は島影一家組員を銃撃、重傷に至らせました(*1)。佐藤組は、発砲による殺傷手段を行使する好戦的な組織であったことが窺えます。

 

 1976年1月佐藤組は源清田会系グループの松田阿部義会、同年3月島影一家、同年4月住吉連合会系組織と抗争をしました(*1)。警察当局は「佐藤組壊滅第三次頂上作戦」を実施、1976年9月佐藤儀一を恐喝の疑いで逮捕しました(*1)。佐藤儀一は後に無罪となりました(*1)。この頃佐藤組加入を望む他組織の組員が増え、佐藤組は拡大してきました(*1)。

 

 1978年佐藤組は、山形市テキヤ組織・奥州山口一家組員の引き抜きを図ったことで、奥州山口一家と対立しました(*1)。結果、佐藤組による引き抜きが認められる形で事態は終結しました(*1)。当時の佐藤組が他団体に無理を認めさせる力を持っていたことが読み取れます。1978年5月佐藤組は秋田県大館市を拠点にする姉ヶ崎グループの八神一家と、縄張りを巡り抗争をしました(*1)。同年7月、抗争により佐藤儀一は姉ヶ崎グループ組員に銃撃され負傷しました(*1)。その後、警察当局により佐藤儀一は逮捕され、懲役生活に入りました(*1)。相次ぐ抗争によって、佐藤組は「東北ヤクザ業界の中でも特筆する好戦的組織」として知られていったと考えられます。

 

 1982年佐藤儀一は懲役から帰り、翌1983年秋田市に新本部を設置、組織名を「佐藤会」に改めました(*1)。最盛期の佐藤会は青森県秋田県山形県の東北3県を活動範囲とし、青森県五所川原市弘前市青森市野辺地町秋田県秋田市本荘市横手市山形県山形市天童市鶴岡市などに支部を置いていました(*2)。佐藤会の直系組長(2次団体トップ)は28人、組員350~400人といわれました(*2)。

 

 1984年9~11月佐藤会は青森県の梅家連合会と抗争をしました(*1)。五所川原市を拠点とする佐藤会2次団体・山新組の青森市内進出が梅家連合会を刺激させたことが背景にありました(*1) (*3)。1986年東北のテキヤ組織は親睦団体「東北神農同志会」を設立しました(*1)。佐藤会の極東グループも参加しました(*1)。1987年8月2日午後1時ごろ、青森市浅虫温泉の市営駐車場で佐藤会と梅家連合会組員が衝突、佐藤会側が発砲、梅家連合会組員3人が弾を受けました(*3)。2人は死亡、1人は重傷を負いました(*3)。

 

 事件が起きた日の夜の浅虫温泉は、翌日開催される青森ねぶた祭の前夜祭として、花火大会が開かれる予定でした(*3)。花火大会の庭主が梅家連合会でした(*3)。庭主は、祭における露店の場所割りの決定権を持っていました(*4)。事件の背景には、梅家連合会が稲川会加入を表明したことがありました(*3)。梅家連合会も参加する東北神農同志会の会則二十七条には「広域博徒組織の傘下に入った組織は庭主の権利を放棄する」という内容がありました(*3)。稲川会は広域博徒組織に該当する為、東北神農同志会内の約束に従えば、梅家連合会は庭主の権利を放棄しなければなりません。しかし梅家連合会は約束を守らず、その為佐藤会が東北神農同志会を代表する形で攻撃したのでした。

 

 1989年11月、山形市を拠点にする佐藤会2次団体川村組は山口組系組織と抗争を起こしました(*1)。佐藤会の上部団体・極東関口の東京勢力の事務所も銃撃されるなど、抗争は広域的に展開されました(*2)。同年12月、和解により抗争は終結しました(*1)。1990年佐藤会内で主流派と反主流派が対立、分裂に至りました(*1)。反主流派のグループは山口組2次団体・芳菱会に入りました(*1)。1992年7月佐藤儀一は佐藤会を解散、引退しました(*1)。主流派は、山口組2次団体・山健組に入ったグループ、山口組2次団体・弘道会に入ったグループと2つに分かれました(*1)。結果的に、佐藤会は山口組に吸収された形になりました。

 

<引用・参考文献>

*1 『実話時代』2018年3月号, p45-53

*2 『洋泉社MOOK・「山口組・血の四〇〇〇日」』(創雄社編、2000年、洋泉社), p132-136

*3 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版), p84-87

*4 『ヤクザに学ぶ 伸びる男 ダメなヤツ』(山平重樹、2008年、徳間文庫), p157

旧ソ連製の拳銃

 

 1991年のソ連崩壊により、日本の拳銃市場に旧ソ連製のトカレフやマカロフという拳銃が入ってきました(*1)。トカレフやマカロフは優秀な拳銃として知られていました(*1)。トカレフやマカロフはロシアマフィアなどにより、ロシアから直接、もしくは北朝鮮や中国を経由し、日本に密輸されました(*1)。トカレフやマカロフの主な密輸手段として、カニ漁船や貨物船による運搬がありました(*1)。しかし次第に当局の監視が厳しくなり、トカレフやマカロフの密輸の動きも少なくなったと言われています(*1)。

 

 トカレフやマカロフが流行る前は、フィリピン製拳銃が日本の拳銃市場で流通していました(*1)。当時(1991年以前)フィリピンでは拳銃1丁2~3万円で購入でき、日本に密かに持ち帰れば1丁10~20万円の価格で売れました(*1)。フィリピン製拳銃の売買ビジネスの利益は7~18万円(1丁)でした。

 

<引用・参考文献>

*1 『マニラ好き』(日名子暁、2007年、太田出版), p109-112