大阪の池田組

 

 かつて大阪に池田組というヤクザ組織がありました(*1)。創立者は池田大次郎でした(*1)。池田組2次団体の1つに堺市の信貴組という組織があり、東組初代総長の東清は信貴組に一時期属していました(*2)。信貴組トップの信貴久治が国政選挙に出馬、結果落選し、加えて選挙違反により服役生活に入ることになりました (*2)。信貴組は解散し、東清は自身の組織を結成する道を選びました(*2)。1960年頃東組が立ち上げられました(*2)。

 

 池田組はその後「い聠合」と改称しました(*1)。1973年池田大次郎が死去しました(*1)。池田大次郎の死去後、い聠合は「二代目い聠合」「浪花連合」「二代目池田組」の三つの勢力に分かれました(*1)。二代目池田組は1990年解散、二代目い聠合はその後、三代目体制になるものの1993年1月に解散しました(*1)。浪花連合も1993年より前に解散しました(*1)。

 

 二代目池田組の旧勢力はその後、二代目池田組の副会長・船本晃をトップとする船本会を結成しました(*3)。船本会はその後、山口組2次団体・倉本組の傘下に入りました(*3)。

 

<引用・参考文献>

*1 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p150

*2 『闘いいまだ終わらず 現代浪華遊俠伝・川口和秀』(山平重樹、2016年、幻冬舎アウトロー文庫), p164

*3 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社), p152

帰無仮説と対立仮説

 

 統計学において「仮説の是非」は、検定(仮説検定)によって決められます(*1)。仮説検定では、まず「帰無仮説」を立て、次に「対立仮説」を立てます(*2)。主張したい仮説は「対立仮説」になります(*2)。

 

 手本引きを例にすると、ある賭場で「六が50%以上の確率で出る」という仮説を主張したい場合、「六が50%以上の確率で出る」という仮説が対立仮説になります。一方、帰無仮説は、対立仮説にとって「否定したい仮説」になります(*2)。手本引きの例では、「六が49%以下の確率で出る」という仮説が帰無仮説となります。

 

 仮説検定は、帰無仮説の間違いを示すことで、対立仮説の正しさを示すという背理法の考えに基づいています(*3)。帰無仮説の間違いが示されることは「帰無仮説の棄却」(*4)、帰無仮説の間違いが示されないことは「帰無仮説の受容」(*5)と呼ばれます。

 

 「帰無仮説の発生確率」(*1)によって、帰無仮説が棄却されるか、受容されるかが決まります。「帰無仮説の発生確率」はp値とも呼ばれます(*4)。また帰無仮説の棄却、受容を決める水準は「有意水準」と呼ばれます(*4)。p値を求める計算の前に、あらかじめ有意水準を決めておきます(*2)。

 

 統計学において有意水準は任意で決められますが、5%以下が望ましいとされます(*4)。仮説検定において、p値が有意水準を下回れば「帰無仮説の棄却」、p値が有意水準を上回れば「帰無仮説の受容」となります(*4)。

 

 手本引きの例に戻ります。帰無仮説、対立仮説(主張したい仮説)は以下でした。

 

帰無仮説「六が49%以下の確率で出る」

対立仮説「六が50%以上の確率で出る」

 

 帰無仮説の検証の為に、有意水準を5%とし、p値(帰無仮説の発生確率)の計算を実施します。

 

 p値が4%であれば、帰無仮説「六が49%以下の確率で出る」は棄却されます。結果、対立仮説「六が50%以上の確率で出る」が採択されます。

 

 p値が6%であれば、帰無仮説「六が49%以下の確率で出る」は受容されます。対立仮説「六が50%以上の確率で出る」は採用されません。

 

<引用・参考文献>

*1 『ゼロからはじめる! 統計学見るだけノート』(永野裕之監修、2018年、宝島社), p160-161

*2 『まなびのずかん 統計学の図鑑』(涌井良幸・涌井貞美、2015年、技術評論社), p76-77

*3 『ゼロからはじめる! 統計学見るだけノート』, p164-165

*4 『ゼロからはじめる! 統計学見るだけノート』, p172-173

*5 『まなびのずかん 統計学の図鑑』, p79

地上げ

 

 1980年代後半のバブル期、ヤクザ組織の資金源の1つとなったのが「地上げ」でした(*1)。地上げとは、底地(借地権の土地)を転売する為に、借地権者に同意を得る作業でした(*1)。底地の転売には、底地の所有者だけではなく、借地権者の同意が必要でした(*1)。1つの底地に対し、多くの借地権者がおり、頑なに拒否を示す借地権者もいました。

 

 地上げでは、ヤクザ組織の構成員が実行部隊として活用されました(*1)。拒否する借地権者に対し、ヤクザ組織の部隊は威圧的な態度で交渉し、従わせました(*2)。時には、自宅へのダンプカー突入、放火などの危険な方法も用いられました(*2)。ヤクザ組織の「暴力装置」が不動産業界で求められた時代でした。

 

 地上げが成功すれば、つまり全借地権者からの同意を得られたら、底地は更地にされました(*1)。更地は高値で転売されたからです(*1)。底地転売は、利幅の大きいビジネスでした。ヤクザ組織にとっても地上げは美味しい商売であったことが推測されます。

 

*1 『現代ヤクザのウラ知識』(溝口敦、1999年、宝島社文庫), p75-76

*2 『裏経済パクリの手口99』(日名子暁、1995年、かんき出版), p98-101

稲川会と愚連隊

 

 太平洋戦争終了後(1945年以降)、神奈川県川崎市の裏社会において、山川修身率いる愚連隊が勢力を拡大させました(*1)。山川修身は東京浅草の出身で、1949年頃から川崎市で愚連隊活動を開始(*1)、以降80人近い舎弟を持つまでに至りました(*2)。

 

 後に山川修身の愚連隊は、稲川会に加入しました(*2)。山川修身の愚連隊に加えて、稲川会は横浜の愚連隊四天王も稲川会に加入させていました(*2)。稲川会は愚連隊を自陣に引き入れるのが巧みだったことが分かります。

 

 1990年稲川裕紘三代目会長体制の開始時、山川修身は稲川会ナンバー2の理事長職に就任しました(*2)。1992年、山川修身は稲川会の最高顧問に就任しました(*2)。1997年山川修身は死去しました(*2)。

 

<引用・参考文献>

*1 『実話時代』2019年9月号, p102

*2 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』(山平重樹、2000年、幻冬舎アウトロー文庫), p289-291

最小二乗法

 

 統計学において「真の値」を推測する方法として、最小二乗法があります(*1)。最小二乗法とは、残差(ズレ)の二乗の和を最小化する推定法です(*2)。回帰式の「切片」と「回帰係数」は最小二乗法によって求められます(*3)。

 

<引用・参考文献>

*1 『統計学が最強の学問である[実践編]-データ分析のための思想と方法』(西内啓、2014年、ダイヤモンド社), p44-45

*2 『人文・社会科学のためのカテゴリカル・データ解析入門』(太郎丸博、2019年、ナカニシヤ出版), p99

*3 『統計学入門』(盛山和夫、2015年、ちくま学芸文庫), p217-221

回帰式

 

 2つの数値が比例し、線形の関係であれば、回帰直線で現すことができます(*1)。回帰直線を示す式が、回帰式です(*1)。

 

 「組員の月額上納金」(x)と「親分の年収」(y)を例にします。「組員の月額上納金」を独立変数(x)、「親分の年収」を従属変数(y)とします(*1)。回帰式は以下になります(*2)。

 

y = a+bx

 

 aは「切片」、bは「回帰係数」です(*2)。aの「切片」、bの「回帰係数」は、以下の計算式で求められます(*1)。

 

a(切片)            = (yの平均値)-b×(xの平均値)

b(回帰係数)     = (xとyの共分散)÷(xの分散)

 

<引用・参考文献>

*1 『人文・社会科学のためのカテゴリカル・データ解析入門』(太郎丸博、2019年、ナカニシヤ出版), p98-100

*2 『統計学入門』(盛山和夫、2015年、ちくま学芸文庫), p217-222

研谷

 

 極東会2次団体・研谷(*1)は古い歴史を持ちます。研谷は、戦国大名武田信玄の孫といわれる武田甚右衛門信輔を「初代」に位置付けています(*2)。初代・武田甚右衛門信輔は甲州から東北に移り、六代目まで組織は宮城県石巻を拠点に活動したと言われています(*2)。七代目武田彦八忠行の時、組織は加賀に拠点を移したと言われています(*2)。

 

 十代目硎谷勘助から十三代目硎谷與三郎の時代、トップは硎谷性を名乗りました(*2)。当時の組織は硎師(刃物や鏡を研ぐ人)を主な稼業にしていたと言われています(*2)。当時の組織名は「硎谷」でした(*2)。

 

 1935年頃から硎谷の山田正信は、山形県庄内地域酒田市に拠点を置きました (*2)。1939年、山田正信は硎谷の十四代目を継ぎました(*2)。十四代目以降(1939年以降)、組織名は「硎谷」から「研谷」に変更されました(*2)。研谷は酒田市を本拠地としました(*2)。

 

 山田正信は、極東・関口愛治の舎弟でした(*2)。1961年極東を中心に結成された「極東愛桜連合会」(*3)に、研谷も加わりました(*2)。山田正信は研谷トップでありながら、1951~1963年の間、酒田市会議員も兼任しました(*2)。ヤクザの親分が政治家を兼任していました。

 

 1965年、村上浩三郎が研谷十五代目を継ぎました(*2)。後に村上浩三郎は極東会の最高顧問に就任しました(*1)。

 

<引用・参考文献>

*1 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版), p166

*2 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』(山平重樹、2000年、幻冬舎アウトロー文庫), p238-241

*3 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p13-14