名古屋の鈴木組

 1949~1950年頃山口組は、名古屋を活動拠点とする2次団体(鈴木組)を持ちました(*1)。当時の山口組は、田岡一雄三代目体制(組長在任期間:1946~1981年)でした(*2)。鈴木組は鈴木光義をトップとし、名古屋港の港湾荷役を主な稼業としていました(*1)。鈴木光義(本名:中森光義)は1905年に生まれ、1924年名古屋市港区の新興海運株式会社で作業員として働いていました(*1)。新興海運は山口組の山口登二代目(組長在任期間:1925~1942年)(*3)とつながりがありました(*1)。山口組は1915 年「港湾荷役の人材派遣業」の組織として、山口春吉(山口組初代組長)により結成されました(*3)。港湾荷役の領域で「名古屋の新興海運」と「神戸の山口組」は結びついていたと考えられます。

 

 太平洋戦争後、田岡一雄三代目は港湾荷役に力を入れました(*1)。鈴木光義は戦前の新興海運と山口組のパイプを活かし、山口組の傘下に入ったと考えられます。山口組傘下に入った1949~1950年頃、鈴木組は伊勢湾海運株式会社の下請け作業を主な稼業としていました(*1)。当時の鈴木組は下請け作業に、労務者10人ほどを入れる程度でした(*1)。1961年鈴木光義は、和光荷役株式会社を設立しました(*1)。和光荷役株式会社は労務者を約70人抱えていました(*1)。

 

 約10年の間で、名古屋港における鈴木組の組織膨張が窺えます。「山口組2次団体」という看板が、鈴木組の組織膨張に寄与したと考えられます。鈴木組は港湾荷役のほかに、賭博事業も行っていました(*1)。明治時代から1964年頃まで、港湾荷役会社の経営者の多くは、常設賭場も運営していました(*4)。鈴木組の賭博は港湾荷役に従事する者を対象にしていたと推測されます。

 

 1964年2月以降、警察庁はヤクザ組織に対する取締り強化を展開(第一次頂上作戦)しました(*2)。1966年5月山口組から、19人の2次団体トップが脱退しました(*1)。19人のうちの1人が、鈴木組の鈴木光義でした(*1)。山口組脱退と同時に、鈴木光義は鈴木組を解散、引退しました(*1)。鈴木組若頭および弘田組(鈴木組2次団体)組長の弘田武志が、旧鈴木組の勢力を、弘田組に吸収する形でまとめあげました(*1)。1969年弘田組は山口組2次団体として、山口組の傘下に入りました(*1)。

 

<引用・参考文献>

*1 『実話時代』2019年9月号, p116-117

*2 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p16-26

*3 『完全保存版 TOWN MOOK 山口組 百年の血風録』(週刊アサヒ芸能・特別編集、2015年、徳間書店), p21-28

*4 『実話時代』2019年9月号, p80